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令和から考える「軽井沢政治」の歴史と神髄~政治家は時間と空間をどう使うか

鳩山一郎、佐藤栄作、中曽根康弘……宰相たちが坂をのぼり軽井沢までやってきたワケ

芳野まい 東京成徳大学経営学部准教授

苦境をガーデニングで耐えた鳩山一郎

御厨 軽井沢と日本政治の関係をさかのぼると、それこそ明治にまで至るのですが、それだとあまりに古すぎるので、戦時中のあたりから始めましょうか。まず、取り上げたいのは鳩山一郎です。

芳野 鳩山由紀夫・元首相のお祖父さんで、戦後、やはり首相をつとめた鳩山一郎さんですね。今も鳩山由紀夫さんは軽井沢に別荘を持っておられますが、鳩山家と軽井沢のつながりは長いですね。

御厨 長いです。軽井沢には「鳩山通り」があるぐらいですからね。

芳野 新幹線の軽井沢駅から北に進み、東雲交差点から北西に進む通りですね。閑静な別荘地を通って「鹿島の森通り」に突き当たるまでの1キロほど。途中に鳩山家の別荘があります。

御厨 そうですね。戦前の昭和15(1940)年に大政翼賛会ができ、日本が翼賛体制に向かうなか、鳩山一郎は自由主義を守ると言って「非推薦」で衆院選に立候補して当選しました。しかし、政治的には不遇になり、引退同然のかたちになった。彼は東京都文京区音羽に立派な私邸があるのですが、東京にいるのがだんだん苦しくなって、5月ぐらいに軽井沢に来て、11月までいて帰るという生活をします。

芳野 半年間も! その間、何をしているんですか。

御厨 なんとガーデニングなんです。彼はずっと日記を付けていて、中身はほとんど政治がらみなのですが、戦前のこの時期は、政治ではなくガーデニングに関する記述であふれかえるわけです。

 現実政治に携われなくなって、やることがないわけでしょ。軽井沢で庭をつくろうと考えた。そこで、いろんな野草を集める。昭和30年代まで軽井沢にあったトロッコ列車に乗って、草津まで植物の買い付けにも行っています。

 本も読むんだけど、精を出すのはもっぱらガーデニング。ある年はジャコウソウで立派な庭をつくり、次の年は生活のために野菜畑をつくる。池も掘って魚を入れたりもする。昭和15年からしばらく、彼の日記はそんなことで占められています。

芳野 政治に携われなくて温存されるエネルギーを、ガーデニングに向けていたんですね。

拡大御厨貴さん=長野県軽井沢町(撮影:吉田貴文)

塀のない家で憲兵の監視の目を逃れて

御厨 ところが、昭和18(1943)年ぐらいになると、風向きが変わってきます。近衛文麿さんや吉田茂さんが時々訪れるようになるんです。近衛さんも軽井沢に別荘を持っていましたからね。

 当時の軽井沢は、各国の外交団が集められ、外国語が飛び交う場所でした。重光葵や来栖三郎、終戦工作に奔走した東郷茂徳らといった外交官も、近所に住んでいました。この地で国際情勢を肌で感じながら、近衛さんらと日本の行方についての話をしていたのだと思います。

 もちろん、当時は憲兵もいるし、特高もいた。だけど、東京から遠いこともあって、監視の目が緩いところがある。しかも軽井沢の家は塀がない。特高が家の門を見張っていても、庭伝いに相手の家に行けちゃう。さすがにそこまでは特高は入れませんから。

芳野 人目に触れずに、行き来ができたんですね。

御厨 そうだと思います。いずれにせよ、軽井沢で随分と会合をやったことは間違いないです。そういうことをしていた連中が、戦後になって山から下り、中央で頑張った。

芳野 鳩山さんは首相にもなりました。

御厨 ただ、鳩山さんの戦後は茨の道でもありました。軽井沢から上京し、日本自由党総裁になっていよいよ政権を担うという段になって、背景にはいろいろあったのでしょうが、戦前のちょっとした言葉じりを捉えられて公職追放になった。そこで軽井沢に舞い戻り、ガーデニングや農作業を再開しました。

拡大長野・軽井沢の鳩山一郎首相別邸の庭を散歩する鳩山一郎、薫子夫妻=1956年8月20日、長野県北佐久郡軽井沢町

念願の総理。夏の間は軽井沢で政務

御厨 5年後に追放解除になりましたが、今度は脳溢血に襲われる。病苦をなんとか乗り越えて政界に復帰。1954年の末、ついに総理大臣になりました。ここで面白いのは、総理として夏は軽井沢で政務を執ると言い出したんです。こちらのほうが涼しいと。

 彼や薫子夫人の日記を読んでいると、鳩山内閣の2年間、8月に軽井沢に来て9月の終わりまで東京に帰っていません。僕にすれば、えっ、日本の政治がそれで成り立ったのかと思うわけです。閣議があっても官邸に帰れませんからね。それでも鳩山さんは、首相官邸との間にホットラインがあるから事は足りると言った。

 裏を返せば、それができるだけのゆとりというか、余裕があったのかもしれません。権力者が軽井沢にいるので、政界の有力者がひきもきらず鳩山の夏の館を訪れました、いわゆる「鳩山詣で」です。後に首相になった三木武夫、中曽根康弘も来ています。

 与党だけではなく、左派社会党委員長の鈴木茂三郎も、新聞記者がいなくなった夕方、変装して鳩山邸を訪れています。保革対立の時代、東京から離れた軽井沢屋敷の効用と言えるかもしれません。

佐藤栄作の夏の館は千客万来

芳野 夏の間、軽井沢が政治にとって大事な場所になったわけですね。鳩山さんの後の総理たちはどうだったのでしょうか?

御厨 岸信介も池田勇人も軽井沢に別荘を持たなかった。ただ岸は熱海に、池田は箱根に別邸を構えていました。軽井沢の別荘を大いに活用した次の総理は佐藤栄作ですね。その後、田中角栄、三木武夫も別荘を持ちましたが、佐藤に次いでフルに使ったのは、なんといっても中曽根康弘です。

 佐藤さんの場合、7年8カ月の在任期間中、ふだんは世田谷区代沢の本宅と鎌倉の別邸を使っていましたが、7月から9月になると軽井沢にやって来ました。さすがにずっとここにいるわけにいかないので、金曜の夜に入って月曜の朝に出るというスタイルでした。

拡大ステッキを手にカラマツ林の中の静かな道を散歩する佐藤栄作首相=1966年8月0日、長野県軽井沢町で

 彼は、今の上皇夫妻が皇太子夫妻の頃、自分の別荘に呼んでパーティーも開いています。皇族との関係が深く、招待できる関係にあったんですね。今だと大騒ぎでしょうが、あの頃は「へえ、そんなもんだ」ぐらいな受け止めだった。そもそも軽井沢とはそういう場所という感じでした。

 佐藤の軽井沢での日課はゴルフでしたが、有力な政治家や経済人も軽井沢の館に呼び、いろいろと話を聞いています。東京とは別の場所での面談に、意味を見いだしていたのでしょう。近くに別荘があった中曽根も、避暑に来た“ご挨拶”という体で訪れている。夏の館はまさしく千客万来で、社交の館としての役割を存分に果たしていました。

 田中は首相就任の直前に、貴族院議長などをつとめた徳川圀順(くにゆき)の別荘を買い上げましたが、佐藤のように活用したという話はあまり聞きません。実利主義の彼からすると、どうしてこんな遠いところまで来なくてはならないのかと考えたのかもしれませんね。

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筆者

芳野まい

芳野まい(よしの・まい) 東京成徳大学経営学部准教授

東京大学教養学部教養学科フランス科卒。フランス政府給費留学生として渡仏。東京成徳大学経営学部准教授。信州大学社会基盤研究所特任准教授。一般社団法人安藤美術館理事。一般財団法人ベターホーム協会理事。NHKラジオフランス語講座「まいにちフランス語」(「ファッションをひもとき、時を読む」「ガストロノミー・フランセーズ 食を語り、愛を語る」)講師。軽井沢との縁は深く、とくにアペリティフとサロン文化の歴史について研究している。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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