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サッカーをしたくてもできない子どもたち~「ボール遊びがうるさい」が奪う「権利」

一方的に禁止するのではなく、対話を

西郷南海子 教育学者

 サッカーは選ばれし子どものスポーツに

 つい先日、ボールを駐車場の車に当ててしまい、叱責されている子どもたちのグループに出くわした。

 子どもたちの数人は身体を震わせて泣いていた。筆者にとって衝撃だったのは、叱責している人物が車の持ち主ではなく、公衆ルールの観点から子どもグループを叱っているということだった。さらにいえば、その人物は幼い子どもを連れており、子育て中ということが一目瞭然であった。

 「ボール遊びがうるさい」という事象は、全国各地で社会問題化している。先日も、長野県で児童福祉施設に隣接する公園が使用停止になり、大きな話題となっている。静かに暮らす権利を主張しているのは、主には退職後に自宅で過ごしているシニア世代かと思いきや、筆者の先日の出来事は、必ずしもそうではないという、問題の複雑さを示すものであった。

 カタールでのW杯と、それにともなう選手の活躍は、サッカーの魅力を余すところなく伝えてくれた。たった一つの球を追いかけ、蹴り合う中で展開される華麗な技の数々は、サッカーファンでなくとも十分理解できた。

BearFotos/shutterstock拡大BearFotos/shutterstock

 これを機に、サッカーをしたいと思った少年少女も少なくないだろう。しかし、本稿で述べるように、多くの地域ではサッカーをできる場所がないのである。もっといえば、本格的にサッカーをするためにはサッカークラブに入団し、指定の練習場所まで親が送り迎えすることになる。それほどまで、金銭的・時間的余裕のある家庭はどれほどあるだろう。日本ではサッカーはもはや「選ばれし者のスポーツ」と化しているのである。

 本来、サッカーに代表されるようにボール遊びとは、基本的にはメンバーが何人いても遊べるという柔軟性と、ボールがどこへ飛んでいくか分からないという不確実性を兼ね備えている。ドッジボール、バスケットボール、バレーボール、その他の名もない遊び……。この柔軟性と不確実性が、今日まで子どもたちを惹きつけているのだろう。

 ではなぜ子どもたちは「ボール遊びがうるさい」と注意されるのだろう。ボール遊び問題をざっと調べてみると、二つの問題が絡み合っていることがわかる。

 一つには、子どもたちが公園に密集することで賑やかになり、それが「うるさい」とされること。もう一つは、公園で遊ばず、比較的車の少ない住宅地の道路で遊ぶことで、周囲からクレームが入るということ。

 後者の場合は俗に「道路族」と呼ばれており、長時間道路を占拠することが反感を呼んでいるようだ。この二つの問題は表裏一体だと考えることができる。ちなみに、「道路族」への注意方法として、ネット検索で上位に来るのが「警察への通報と、学校への通報」である。自らは「クレーマー」となることを避けたいとい心理がにじみ出ている。

 一方、公園は、公園として整備されているがゆえに、多様な年齢層の子どもたちが集まる。その結果、手狭な公園では遊びづらくなり、ちょうどよい道路に移っていくのだろう。また思春期とされる高学年になると、学年内・クラス内の人間関係も変化し、同じ場所で遊ぶグループも限定されたりする。たとえばA公園はAグループ、B公園はBグループというように。したがってこれは、学区内に公園がいくつかあるだけでは解決しない問題なのである。

 ちなみに、小学生は安全のための学校ルールとして、子どもたちだけで遊ぶ場合は、学区内で遊ぶこととされている。したがって、条件のよい公園が他学区にあっても、子ども達だけで移動することは難しい。このように、ボール遊びをめぐる問題はいくつもの課題をはらんでいるのである。


筆者

西郷南海子

西郷南海子(さいごうみなこ) 教育学者

1987年生まれ。日本学術振興会特別研究員(PD)。神奈川県鎌倉市育ち、京都市在住。京都大学に通いながら3人の子どもを出産し、博士号(教育学)を取得。現在、地元の公立小学校のPTA会長4期目。単著に『デューイと「生活としての芸術」―戦間期アメリカの教育哲学と実践』(京都大学学術出版会)。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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