「新自由主義」と「社会的共通資本」の対立を通して考える
2022年12月09日
脳塞栓(そくせん)症の後遺症で障害を抱えつつ、人類学研究にとりくむ三谷雅純さんの連載「〈障害者〉と創る未来の景色」の5回目は、障害者雇用がなぜ実現しないのかを考えます。連載の感想や自分の体験を伝えたい、私も当事者として論じたいという方がいらっしゃいましたら、メールでinfo-ronza@asahi.comまで感想や体験、論考をお送りいただければ幸いです。一部だけになりますが、論座でご紹介したいと思います。(論座編集部)
教育と研究の枠組みで障害者雇用の先行きを考えてみましたが、どうにも考えがまとまりません。どこかに矛盾があるようです。
この連載「〈障害者〉と創る未来の景色」で、わたしはこれまで教育や研究の世界で障害者雇用が少ない理由をあれこれ考えてきました。例えば「なぜ障害のある教員は少ないのか?~研修に携わった経験からみえてくること」(2022年07月03日付)や「見えない『制度的差別』と『文化的差別』をどう乗り越えるか」(2022年10月12日付)、それに「障害者に研究はできないと誰が決めるのか?」(2022年11月10日付)です。
その中で明らかにできたことは、文部科学省は障害者を雇用しようと勧める一方で、多くの初等・中等教育の現場では障害者雇用が未だに充足していないという現実です。障害者雇用が事務職員に偏っている事実もあります。教育職員、つまり先生の障害者雇用の割合は低いままなのです(「教育委員会における障害者雇用に関す実態調査」)。高等教育の現場でも同じことです(「障害者雇用状況報告の集計結果について」)。教育機関が障害者を通常の業種と同じ割合で雇用することは難しいだろうということで、教育機関には障害者の雇用義務を軽減する「除外率制度」が適用されています。障害者雇用が未だに充足していないというのは、その「除外率制度」の適応を受けているという事実を盛り込んだうえでの話です。
今、障害者の雇用は、日本に限らず世界的な合言葉になっています。日本でも女性や民族的マイノリティや性的マイノリティと同じように、障害者の人権が大きな問題になってきました。しかし、教育や研究の世界から「障害者の雇用は大切だ」「障害者の雇用をもっと増やそう」というかけ声は聞こえても、なぜか実体としては増えないのです。わたしなど障害当事者ですからイライラし通しです。
障害のある生徒や学生は多くいるのに、非常勤でしか働き口がないといったことをよく耳にします。これは教育や研究の世界だけの話ではありません。一般企業でも同じです。働く場所の問題だと思えてきました。
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