西郷南海子(さいごうみなこ) 教育学者
1987年生まれ。日本学術振興会特別研究員(PD)。神奈川県鎌倉市育ち、京都市在住。京都大学に通いながら3人の子どもを出産し、博士号(教育学)を取得。現在、地元の公立小学校のPTA会長4期目。単著に『デューイと「生活としての芸術」―戦間期アメリカの教育哲学と実践』(京都大学学術出版会)。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
二分法と精神論による指導ではなく、「言葉の力」をこそ学ばせるべきだ
近年、みなさんは小学校に足を踏み入れたことがあるだろうか。壁という壁が標語で埋め尽くされ、目が回るような光景が広がっているのである。とりわけ、「ふわふわ言葉」と「チクチク言葉」の区分が頻繁に用いられ、筆者の調査では北海道から沖縄までの小学校で使われていることがわかった。「ふわふわ言葉で学校(クラス)をいっぱいにしよう」というように。
では、「ふわふわ言葉」と「チクチク言葉」とは何か。ずばり、自分(相手)を喜ばせる言葉と、自分(相手)を嫌な気持ちにさせる言葉のことである。主には道徳の時間に学習され、子どもたち同士のロールプレイングなども行われている。道徳教科書の指導用書にも登場し、副読本『心のノート』と併用されていることもある。
筆者が授業参観で初めてこれを目の当たりにしたとき、なんとも言えない不安感を抱いた。なぜなら言葉の意味というものは、すべて文脈に依存しているので、特定の言葉だけ使用禁止にすることが「道徳」性の発展にはつながらないと考えるからだ。ましてや、一つの言葉に一つの意味しかないかのように教えることは、子どもたちの読解力をも下げるだろう。
たとえば人間の怒りには怒りの意味がある。それを「チクチク言葉」として封じられた場合、子どもたちが生きる上で必要な力を失ってしまうのではないか。たしかに子どもは安易に「死ね」「うざい」「キモい」などの言葉を口にする。それは、まだ語彙が少ないからであって、その「チクチク言葉」そのものを取り除いたところで、子どもがそれを発した根本的な背景は見えてこない。
また、言葉の意味も急速に変化する。筆者が子どもの頃は「やばい」が新種の若者言葉として問題視されていたが、時は移り、現在筆者の子どもたちは「えぐい」「えっぐ!」を頻用している。料理においては取り除かれるべき「えぐみ」を、(多くは肯定的な意味での)印象の強さに例えているのである。このように言葉とは、一対一の意味から絶えずすり抜け生まれ変わる、生き物のようである。