西郷南海子(さいごうみなこ) 教育学者
1987年生まれ。日本学術振興会特別研究員(PD)。神奈川県鎌倉市育ち、京都市在住。京都大学に通いながら3人の子どもを出産し、博士号(教育学)を取得。現在、地元の公立小学校のPTA会長4期目。単著に『デューイと「生活としての芸術」―戦間期アメリカの教育哲学と実践』(京都大学学術出版会)。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
二分法と精神論による指導ではなく、「言葉の力」をこそ学ばせるべきだ
では、この「ふわふわ言葉」と「チクチク言葉」は、どこからやってきたのか。筆者の調査では、手塚郁恵氏(元教員でカウンセラー)の実践にインスピレーションを受けた、赤坂真二氏(元教員で上越教育大学教授/実務家教員)の書籍によって広がったと見られる。
興味深いことに、論文検索などでは「ふわふわ言葉」と「チクチク言葉」に関する学術論文を見つけることができず、あくまでも教育現場レベルの実践として大きな広がりを獲得しているようである。
赤坂氏の『友だちを「傷つけない言葉」の指導』(2008年)の大きな特徴は、「型からの指導」と「言霊主義」である。その内容を見てみよう。
社会で認められる個性とは、世の中のマナーやルールの範囲内で、発揮されるべきです。マナーやルールといった基本的なことを守った上で、オリジナリティを発揮すべきものだと思います。ルール、マナーを無視した個性的な言動は、単なる「奇行」です。(同上書, p. 23)
「世の中のマナーやルール」は、絶えず再点検されるべきものであるという法的な視点を一切欠いたまま、その範囲内で「認められる個性」とはいったいどのような個性なのか。要するに(著者である教員に)迷惑をかけない子どもを欲しているとしか思えない。さらに、その「型にはめる」指導は、ここまでエスカレートする。
今、学校は指導内容が多すぎて、いっぱいいっぱいの状態です。(…)[それに対して]スキルから、内面に迫る指導は、比較的時間がかかりません。まず、やらせてみて、それを子どもたちによいものだと感じ取らせて、実践化させるわけです。たとえば、感謝することの大切さ、必要性を教えてから、ありがとうと言わせるのではなく、まずありがとうと言わせてみて、その気持ちよさなどを味わせ、感謝することとはどういうことかを感じ取らせていく、というような働きかけです。(同上書, p. 23)
行為の是非や意味を論じずに、まず「やらせてみて(…)よいものだと感じ取らせて」という方針に関しては、これが「教育なのか」という思いを抱く。
1980年代に大流行した教育技術の「法則化運動」(現在のTOSS)も、子どもたちの成果を一定のレベルまで導くことに強い使命感を抱いていたわけだが、子どもたちの主体性を赤坂氏ほどには軽んじていなかったのではないか。ここで子どもたちが体験することになる「気持ちよさ」は、赤坂氏によって用意されたものであり、ここでも子どもは赤坂氏のテリトリー内の存在である。子どもたちが自分で問題を発見し、仲間と協力して、問題に迫っていくという姿は見られない。
加えて、