「保育は虐待と隣り合わせ」という状況を生むほんとうの問題とは……
2023年01月25日
2022年11月30日、静岡県裾野市にある認可保育園さくら保育園において1歳児クラスを担任した保育士3名による虐待行為がセンセーショナルに報道された。彼女らは暴行容疑で逮捕され、園長も犯人隠避容疑で刑事告発された(告発は1月下旬に取り下げられた)。
在園の子どもたちに対し「カッターナイフで脅した」「逆さ吊りをした」など、その行為の異常さが明るみとなった。そして、彼女らのプライベートな情報も報道され、その人物像にも関心が集まった。この事件以降、日本全国の乳幼児保育施設からも連鎖的に虐待事件の報道が相次いだ。
保育園の虐待事件について、メディアに流布される専門家や研究者の見解は、どうも本質をとらえていないのではいかという疑問が筆者にはある。現職の保育士たちもそれぞれにSNSなどで想いや考えを綴っているが、どこか散漫とした合意のとれなさにもどかしさを感じている。
保育現場に即したその臨場感のある言葉は、ある意味で虐待そのものを擁護することにつながりかねない危険性を孕(はら)む。例えば、「慢性的な保育士不足の中で子ども一人ひとりを丁寧に保育するなんて不可能だ」など、疲弊した保育現場についての生々しい報告がそれだ。その通りではあるのだが、虐待を説明し得てはいない。
一方で、今回の虐待事件を非難し断罪する保育士たちもいる。すると今度は、「じゃあ、あなたは絶対虐待をしないと言い切れるのか?」というブーメランが返ってきそうだ。
「保育は虐待と隣り合わせだ」。事件直後、筆者はふとこの言葉をSNSに呟いた。
筆者自身にも虐待を非難したい気持ちはありつつも、あと一歩間違えば自分が保育士として虐待の加害者になっていた可能性もあったと、心の中に淀(よど)むものがある。そうした反省を踏まえ、筆者なりに言葉を尽くして保育における虐待問題の考察を記す。
思い上がりに聞こえるかもしれないが、その役割への責任を筆者自身が感じている。なぜなら、筆者は保育士として保育現場を知る者であり、かつ保育を研究し教える者であるからだ。
どのような者がこの論考を申しているか、読者にとって納得感を持っていただけるよう簡単に筆者の経歴を記しておく。
筆者は、国家試験にて保育士免許を取得し、約8年認可保育園に勤務した。数年前より、保育士の傍ら大学院で保育学研究を始めた。昨年夏(2022年7月)に保育園を退職し、現在は大学院での研究を継続しながら、保育士養成の専門学校や大学にて非常勤講師として学生の指導にあたっている。受け持っている主な科目は、「保育内容(人間関係)」である。そして、筆者自身の研究調査フィールドは保育園であるため、今でも保育園に通う生活を送っている。
虐待に限らず保育の問題が取り上げられる際に、必ずやり玉に挙げられる二大要因がある。送迎バス置き去り事件も併せて思い出してほしい。今回の虐待報道でも専門家や研究者のコメントを添えながら、同じくこの二大要因が説明された。
一つ目の要因は、保育士の低賃金である。社会的にも経済的にも必要不可欠で重要な職業であるにも関わらず、保育士はその専門性を適正に評価されてこなかった歴史的経緯がある。
低賃金の待遇に反して子ども命を預かるというプレッシャーや報酬に見合わない業務量・サービス残業があるため、保育士の離職率は高くなる。これによって、保育現場は保育士の入れ替わりも激しく、安定的な保育の提供ができないというものだ。とにかく人手不足であるために、虐待をはたらいてしまうような、保育士としての資質・能力を欠いた者でも雇い入れてしまうという問題もある。
二つ目の要因は、配置基準である。これは、厚生労働省が定める「児童福祉施設最低基準」を指している。「明るくて、衛生的な環境において、素養があり、かつ、適切な訓練を受けた」職員(保育士)により、子どもたちが「心身ともに健やかにして、社会に適応するように育成されることを保障する」観点から、保育士1人に対して子どもを何人まで保育することができるのかという最低ラインを、子どもの年齢ごとに規定している。
今回の事件が起きた1歳児では、保育士1人に対して子ども6人が最低配置基準である。例えば、クラスに1歳児が12人在籍しているとしたら、保育士は最低でも2人必要であるということだ。
しかし、現実問題として1歳児12人に保育士2人という状況はかなり危険である。想像してもらいたい。1人の子どものオムツ替えに保育士1人がトイレに連れ立ったら、保育室は子ども11人に対して保育士1人となる。子どもは予測がつかない行動も多く、安全を守るためには、やはり量的な保育士配置が必要不可欠だ。現状、日本の配置基準は保育現場に適したものとは言い難い。
最近では、各自治体(横浜市など)や各法人の努力により、配置基準よりも多く保育士の人数配置する保育園も散見できる。しかし、これは人件費の問題でもあるため、経営が厳しい保育園では配置基準スレスレ(時には配置基準を守れずに)の人数配置しかできないこともよくある。
こうした日本の配置基準を諸外国と照らし合わせて、「だから日本の保育は虐待が起きかねないのだ」とメディアは問題視する。その通りである。日本は、1948年にこの最低配置基準を定めてから抜本的な改革を避けているままだ。
この二大要因は、現職の保育士たちにとっても共通認識が持たれている重大な問題であることは間違いない。そして、日本社会全体にとっても、保育や子育てをどうするのかという制度的問題として重要議題であることに疑いの余地はない。
さらに、今回の報道では、三つ目の要因も挙げられた。それはカリキュラムの増加である。これは、保育園などが独自に行っているもので、英語・工作・体操や音楽(リトミック)などの教室のことだ(有料・無料がある)。
本来、保育園では(さまざまな体験を通して主体的に学ぶ)経験カリキュラムを中心としているため、こうした学校のような教科カリキュラムは求められていない。しかし、これらカリキュラムは各法人の保育園経営において重要な役割を果たしている。「〇〇教室」を設定することで保育園の独自性を打ち出し、少子化の時代に園児募集につなげる意図があるのだ(待機児童問題と同時に保育園経営問題がある)。
この「〇〇教室」は、外部講師を呼ぶことも多いため、時間の融通が効かない。そうすると保育士には、「〇〇教室が始まる前になんとかして子どもたちのおやつを済ませないと! トイレを済ませないと!」といった具合に時間的な余裕がなくなり、虐待を誘引するという説明が報道でなされていた。
さらに、四つ目の要因もある。新型コロナウィルス感染症対策である。
周知の通り、感染症対策は保育士にとって業務増加を招き、かつ、保育士自身の感染リスクについても不安をもたらした。こうした業務とストレスの増加は、保育現場をいっそう逼迫させ、保育士の疲弊を招いた。これが、虐待につながるという説明であった。
以上、メディアは虐待について4つの要因を報道してきたが、これで虐待が適切に説明されているかといったらそうではないというのが筆者の見解である。4つの要因は「保育士の余裕の無さ」を招いてしまう社会的・環境的条件を説明しているのであって、「保育士がなぜ虐待をしてしまうのか」という一番重要な問いには答えていない。
なぜなら、4つの要因下においても、虐待をしない、または虐待を思い留まることのできる保育士の方が実際は多数派であるからだ。よって、4つの要因をあげつらっているだけでは、虐待の再発防止策にはつながらない。なかでも低賃金と配置基準の改善は、各保育園に任せてしまうのにはあまりにも荷が重い。これらは国や自治体レベルの制度的問題であり、保育現場ですぐに改善することは難しい。
YouTubeや各メディアで活躍するカリスマ保育士である「てぃ先生」も、出演番組などでこの虐待事件を解説した。AMEBA News「【逆さづり】園児虐待の実態は?氷山の一角?監視カメラの必要は」において、てぃ先生は今回の事件を強く非難し、他のメディアと同じく低賃金と配置基準の問題を取り上げた。
以下は、番組が用意した『しつけと虐待の境目は?』という虐待事例をイラストで紹介するパネルを介したディスカッションでのてぃ先生の発言である。
保育士はこんなこと(パネルに示されたような虐待)をしないんですよ。国家資格を持ったプロですから。その、罰をあたえるようなかたちで子どもに言うことを聞かせようということは、僕はやっぱりいい保育ではないと思うんですよ。それが犯罪かどうかっていう話は置いておいて。虐待って話も置いておいて。だから今回その保育士たちが子どもに、ま、ものすごい罰ですよね言ってしまえば。ま、とんでもない代償をみたいなものを(子どもに)払わせているっていうこの状況が、僕は意味がわからないんですよ。家庭だったらまだ百歩(譲って)わかりますよ、この図(パネル)も。保育士は(虐待を)やるなよって単純に思います。〈( )は筆者の補足〉
筆者も「国家資格を持ったプロ」の保育士として、虐待をすることは言語道断であるというてぃ先生の意見に一定の賛同はする。しかし、「(虐待を)やるなよ」と諌め、虐待をしてしまったことを「意味がわからない」と切り捨てていいのだろうかという疑問が残る。
ここで保育に携わる者たちが考えるべきことは、その虐待をしてしまう「意味のわからなさ」の究明であり、そこからの具体的な再発防止策ではないだろうか。
断っておくが、筆者は今回逮捕された保育士3名を庇(かば)う意図はない。犯罪として追求するべきだという点では、てぃ先生に賛同する。その上で、「保育士はなぜ虐待をしてしまうのか」という根本的な問いについて考えてみたい。
まず、保育士養成科目について着目する。
「虐待」について、保育士を目指す学生は、専門学校や大学・短期大学の講義で習う。一般社団法人全国保育士養成協議会(保育士国家試験の全ての事務を実施する機関)が規定する科目のうち、「子ども家庭福祉」「社会的養護」「子どもの保健」などが虐待を取り扱っており、各教育機関はそれぞれ独自性を加えながらカリキュラムを組んでいる。
これらの科目では、虐待の類型(心理的・身体的・性的虐待及びネグレクト)と、それぞれの特徴を学ぶ。ここで取り上げられる虐待とは、主に家庭などで発生する虐待についてである。保育士という職業は、子どもに襲いかかる虐待を発見しやすい立場であることを自覚し、発見した場合には社会福祉事務所や児童相談所などに通告する義務があることを習う。
筆者も保育士試験の勉強の際、そのように教科書から学んだ。保育士を目指す学生は、虐待について学ぶと言っても「虐待を発見する側」の視点を学ぶのであって、「保育士として自分が虐待をしてしまいそうになった時に、どのようにしたらいいのか」という主体的視点では教えられてきてはいない。すなわち、虐待は保育士養成において保育士自身のこととしてではなく他者化された問題として提示されてきたのである。
保育士は、「子どもが大好き」という前提にもとづき、虐待する主体としての想定がなされてこなかったのであろう。もちろん、なかには気を利かせて、追加して保育士自身の虐待について指導をしている指導教員もいるだろうが、それはまだ一部のことだと思われる。
ベストセラーの『嫌われる勇気』(岸見 一郎/古賀 史健:著、2013年、ダイアモンド社)でも、アドラー心理学を応用して、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」(p.71)と喝破している。筆者の経験からも、保育士の悩みもまた例に漏れず人間関係であると考える。
保育園は、毎日のように同僚保育士や保護者、そして子どもたちと顔を突き合わせている狭い空間だからこそ、より濃密な人間関係の渦中にある。子どもも個々に意思を持ち、成長の差はあれども言葉を話す人間であるため、保育士個人と子ども個人の性格的な相性の問題ももちろんあるだろう。
ただ、ある子どもの態度や行動に苛立(いらだ)ちや怒りが湧いたとしても、「国家資格を持ったプロ」として他の子どもたちと平等に接することはもちろん、虐待などは絶対にあってはならないわけで、これが保育士に求められる基本的な資質・能力であることは間違いない。
問題は、こうしたプロフェッショナルな態度を持続的に維持するための感情の運用についての教育・訓練がされていないことにあると筆者は考えている。虐待をしてしまいそうな瞬間、どのように自分の感情をコントロールして思い留まるのかという議論である。
上から目線で「やるなよ」と諌め、「意味がわからない」と切り捨てるだけでは、この問題は解決しないし、保育の質の向上も無理だろう。
4つの要因に挙げた配置基準の問題とも密接に絡むが、保育現場ではクラスを保育士1人で見なくてはならない、いわゆる“ワンオペ状態”が度々生じる。先の例に挙げた1歳児クラスでも、もう一人の保育士がオムツ替えにトイレへと移動すれば、その間、クラスは実質的にワンオペ状態だ。
4・5歳児クラスであれば、配置基準は保育士1人に対して子ども30人である。このワンオぺ状態の最中、手前の子どもの危険行動を止めたと思ったら、あちらでは取っ組み合いの喧嘩が始まったのですぐさま仲立ちに入り、さらにトイレではお漏らしをした子が呼んでいる……。保育士がワンオペ状態であろうとなかろうと、トラブルは容赦なく同時多発的に発生し、保育士はそれらへの対処に追われるのである。「保育士の余裕の無さ」とは、このような状態が多いのではないだろうか。
こうした疲労困憊(こんぱい)の逼迫状態で心の中に湧き上がる、苛立ち、怒り、憤慨、腹立たしさといった感情(以下、〈ネガティブ感情〉)をどのように手放し、「子どもが大好き」な先生にリセットされていくのかというプロセスについて、保育士間の相互ケア的な視点が有用になるのではないだろうか。
もちろん大前提として、〈ネガティブ感情〉は、その保育士個人がコントロールすべきことである。しかし、多くの保育士がこのような感情経験をするのであれば、やはりその対処方法は検討されていくべきだろう。筆者は、〈ネガティブ感情〉の存在自体を自覚し、それを丁寧に言語化する作業を相談しながら行えるようになることこそが、虐待防止策の中心だと考える。
〈ネガティブ感情〉の対処方法の一つは、実は案外すぐ近くにヒントがある。育児や介護・看護におけるレスパイト(ひと休み)だ。
家庭での子育てに疲弊する保護者に対し、保育園の「一時預かり保育」などを利用して子どもと離れる時間をつくる。レスパイトは、保護者自身の気持ちのリフレッシュを図り、またポジティブな気持ちで子育てに向かえるようにするという考え方だ。
ワンオペ育児など、現代における家庭育児の孤立も深刻化しており、レスパイトは保護者の休む権利を保障することで負担軽減を図る。筆者もまた、保護者支援において、「ずっと子育てに張り付いているのもしんどくなるので、たまにはママ(パパ)も子どもを預けて息抜きしてくださいね」と声をかけたことがある。
「子どもたちのことは大好きだけど、今はどうしても可愛いと思えない……」
ワンオペ育児に苦しむ保護者だけでなく、保育士もまたこのような〈ネガティブ感情〉を経験しているだろう。こんな言葉を口に出したら、保育士失格であろうか。そう思われないように、多くの保育士がこんな〈ネガティブ感情〉を心の奥にしまい込んで、自分の〈ネガティブ感情〉に見て見ぬふりをしてきたのかもしれない。〈ネガティブ感情〉が心に芽生えた時、その気持ちを正直に先輩や同僚に相談できる職場環境が必要なのだ。
「先輩。私、今、子どもがどうしても可愛いと思えないんです。余裕がなくて、子どもに強く当たってしまいそうで……。ほんの10分でもいいから少し保育を替わってもらい、外で気持ちを落ち着けてきてもいいですか?」と、若い保育士たちは〈ネガティブ感情〉を包み隠さず正直に相談してほしい。そして、先輩保育士たちは、「あなたは今、気持ちが追い詰められていたんだね。わかった、少しの時間だけでも外で気持ちを整理しておいで。悩みを相談したかったら後で時間をつくるよ」とサポートをしてやってほしい。これが保育におけるレスパイトだ。
まかり間違っても、「甘えだ。保育のプロとして失格!」や「子どもが可愛いと思えないなんて保育士向いてないんじゃない?」などと非難しないであげてほしい。「国家資格を持ったプロ」同士だからこそ、お互いの感情のケアを担い、「子どもが大好き」というポジティブな感情にリセットし合える人間関係の構築を目指してほしい。
〈ネガティブ感情〉自体もそれを口に出すことも、保育士としての資質・能力不足を認めることではない。むしろ〈ネガティブ感情〉を認めコントロールできることこそが、「国家資格を持ったプロ」の保育士としての要件であろう。これができてこそ、「子どもが大好き」な保育士による持続的で安全・健全な保育の提供につながり、それ自体が子どもたちの幸せな保育園生活につながる。(「後編」に続く)
★「保育士はなぜ虐待をしてしまうのか?~保育士・研究者による体験的考察(後編)」は「こちら」からお読みください
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