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【がんと向き合う⑨】闘病を支えてくれる、人の情け

学生たちの励まし、友人たちが出版基金

隈元信一 ジャーナリスト

学生たちの声援、心にしみた

 人の情けとは、かくもありがたいものか。

 がんになって以来、何度もそう思った。これまで紹介してきた医療関係者や家族のほかにも、多くの人の情愛に触れ、何度涙したか分からない。

 私にとっては、人々の支えが「心のリハビリ」とでも呼びたい活力源だった。

Yulia YasPe/shutterstock.com

 病に倒れてまず心にしみたのは、学生たちの声援だった。

 私は、青山学院大学国際政治経済学部のジャーナリズム指導室(以下、指導室)で学生たちにジャーナリズムや作文を教えている。そもそもは2012年、当時の国際政治経済学部長に、こう声をかけられたのがきっかけだった。

 「私の学部では、ジャーナリスト志望の学生が増えています。しかし、教える場がありません。お願いできないでしょうか?」

 私は当時、朝日新聞のメディア・文化担当の編集委員をしていた。ジャーナリスト志望の学生は減っていると思い込んでいたから、増えているとは驚いた。ならば、その志を受け止めないわけにいかないだろう。快諾し、週に1回の指導室を開講した。

 それから10年余、東京を離れていた時期は後輩記者に頼み、中断なしに続けてきた。時事問題をテーマに激しい討論を交わしたり、作文の相互批判をしたり。教室の熱さは、ずっと変わらない。

 2021年8月31日、腰の激痛を訴えて入院したとき、その年度の後期が間近に迫っていた。何とか乗り切らなくてはならない。不幸中の幸いと言うべきか、コロナ禍でオンライン授業なのが助かった。病室からでも開講できるからだ。

 2021年夏に「余命3カ月から半年」と宣告されたジャーナリスト、隈元信一さんの闘病記です。これまでの連載はこちらからご覧になれます。

手作りの新聞に「社説」「ひと」欄

 9月18日、OB・OGを含めて、学生たちが画面の向こうに集まった。いつの間にか「隈元さんを囲む会」になっていた。一人ひとりと対話しながら、胸が熱くなった。もっと驚いたのは、その日のことを「指導室新聞」にまとめて届けてくれたことだった。

 トップ記事は「隈元さんを囲む会開催」「卒業生を含め55人が集結」という見出しで、こんな内容だった。

 9月18日土曜日、後期初回の活動が行われた。卒業生を含め55人が集まり、病床の隈元さんと言葉を交わした。ジョークを交えながら病状を語り、柔らかな笑顔で私たちの話を聞く。隈元さんの変わらない姿に、胸が熱くなった。

 在校生に与えられた隈元さんとの時間は1時間。当初、私たちの間には妙な緊張感が漂っていた。でも、隈元さんの登場で空気が一変する。温かく、ちょっとひりついた、あの指導室の雰囲気に。

 1年生は雰囲気が好きだと言い、2年生は隈元さんの魂を引き継ぐと述べた。3年生は出会いに感謝し、4年生は思い出を語った。半泣きの顔、寂しげな微笑み。満開の笑顔、下手な作り笑い。それぞれ表情は違うけれど、誰もが必死に言葉を紡ぐ。そんな私たちにコメントをくれる隈元さん。変わらぬ姿に頬が緩む。

 隈元さんが投げる、それぞれに合わせた、優しい豪速球。それを私たちは全身で受け止める。一つ一つが心に溶け込んで、明日を支える養分になっていく。

 最後まで見届けてほしい。私たちの開花の日は遠くない。語る言葉の端々に夢を滲ませる後輩たち。その目は、仕事を語るあの人によく似ていた。

 新聞はみんなで手分けして書いたタブロイド版4ページで、社説や「ひと」欄までついていた。 

青山学院大学のジャーナリズム指導室の学生が作ってくれた新聞

 社説は、新聞記者に内定した4年生によるものだった。「夜の部 一刻も早い復活を」という見出しで、コロナ禍が早く終わり、指導室後の飲み会、通称「夜の部」の復活を訴えていた。「私たちの師匠であり、親分であり、同士である隈元信一さんを囲み、酒を酌み交わしてきた文化を絶やしてはならない」と。

 「ひと」欄は当然のごとく、私のことについて書いていた。最後はこうだった。

 「大事なのはマラソンではなく、たすきリレーだ」。前の世代の反省を胸に出発した記者人生。自分が握りしめてきたたすきを、次の世代へとつなげる。「ジャーナリズムは僕の生きがいだから」。今日も走り続ける。

OneLineStock.com/shutterstock.com
 新聞の一字一字を読みながら、涙が出て、止まらなくなった。自分のことを何と良く理解してくれているのだろう。

 何より嬉しかったのは、「たすき」を引き継ぐ気持ちをみんなが持ってくれていることだった。マラソンは、ゴールしてしまえば、そこで終わりだ。駅伝は、自分が走りきったあとも、次の走者が走ってくれる。たすきを渡すまでは、がんばろう。あらためて、そう思えるのだった。

 学生たちに元気づけられたのは、「指導室新聞」だけではない。病室は殺風景で無味乾燥だろうからと、枕から芳香が広がるピロースプレーを送ってくれたり、指導室でやっているように、800字の作文に激励をしたためてくれたり。あの手この手で投げてくれる応援のボールを受け止めながら、その後の指導室も無事に続けることができた。

 前に触れたように、隣人と対話できる2人部屋から、指導室の開講日だけは1人部屋へ。あわただしい移動だったが、少しも苦にならなかった。

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