新右翼武闘派からテロの否定、そして言論の自由の擁護者へ
2023年01月27日
新右翼「一水会」の元代表、鈴木邦男さんが亡くなった。
後年、テロを否定し、言論勝負を宣言。好んだヴォルテールの名言があった。
《あなたが言っていることに、私はまるで同意しないが、それを言うあなたの権利のためには体を張っても戦う》
右翼でもない、左翼でもない。孤高の言論人が逝った。
新聞社の先達、筑紫哲也・朝日ジャーナル編集長による対談企画「若者たちの神々」(1984~85年)に、鈴木邦男さん(当時40歳)が登場したのは1984年5月4日号だった。晩年は、好々爺然としたイメージで親しまれた鈴木さんも、当時は肉弾戦をいとわない武闘派の活動家だった。思い詰めたような表情のカットが印象的で、トップページにはこんな題字が躍っていた。
『若者たちの神々』 鈴木邦男
全共闘に対抗、連動して生まれた新右翼のイデオローグ
いまや敵の姿なく、社会の保守化を嘆く異端、孤影の神
鈴木さんはそこでこんな持論を語っている。
反面教師の先生方(=全共闘、筆者注)はどんどんいなくなっちゃって、警察がもろに弾圧してくるのは僕らです。朝日新聞社に爆弾を仕掛けたんじゃないかとか、無実の罪で、僕らは弾圧されている
新左翼がいないから、じゃ新右翼を弾圧しようということで、こっちが集中砲火ですよ。全共闘のロートルの諸君がもう一度がんばって世の中を騒乱させてもらわなきゃ困りますよ
私事ながら、筆者は当時、群馬の高校2年生。世代的には、遅れてやってきた「朝日ジャーナル」の愛読者で、発売日には決まって街の書店へ急いだ。
それから約25年後、週刊誌『AERA』の名物企画「現代の肖像」で鈴木さんを取り上げることになり、はからずも筑紫さんと『朝日ジャーナル』への思いを本人の口から聞くことができた。
「あの時、筑紫さんに取り上げられなかったら、今も無名の右翼のチンピラでしょう。取り上げられて、自分たちが大きく変わったんですよ」
筑紫哲也さんが亡くなり、「お別れの会」が都内であった2008年末、遠い目をしてそうつぶやいたのだ。
「若者たちの神々」は朝日ジャーナルの看板企画で、野田秀樹、ビートたけし、椎名誠、村上龍、桑田佳祐、藤原新也、山本耀司、中島梓、林真理子の各氏ら、そうそうたる面々がゲストに名を連ねていた。新右翼の論客としてその界隈で知られていたとはいえ、編集部もそれなりの覚悟をもって、現役活動家の鈴木さんを載せたのだと筆者は思う。
鈴木さんもそれは承知していた。
「約25年前ですよね。『右翼に言論の場なし』みたいな時代で。こっちも火炎瓶なんかを投げていた頃だから、雑誌側も冒険でしょう。そういう人間を載せて運動で捕まるのならまだいいけれど、破廉恥罪とか、殺し、企業恐喝、詐欺なんかで捕まったら、筑紫さんの立場がない。よく載せてくれたなあ」
筑紫さんとの対談から6年後、鈴木さんと一水会にもう一つの転機がやってきた。テレビ朝日系「朝まで生テレビ!」への出演だった。1990年の長崎市長銃撃事件直後で、居並ぶ右翼・民族派の中で鈴木さんはただ一人、「テロ反対」を主張した。
朝日新聞阪神支局襲撃事件(87年)など、一水会は赤報隊事件との関連を疑われ、ひどい時期には連日の家宅捜索とベタ張りの尾行がついた。「テロでは社会は変わらない」という思いが自分の中で膨らんでいた時に長崎市長銃撃が起きた。
テレビ局に招かれ約5時間。「主張の場」が与えられたことで、「右翼には言論の自由はない、だからテロだ、肉体言語だ――」という右翼の大義名分は奪われた、と鈴木さんは考えた。
当時、民族派の過激行動には、発言の場をつくりだすための手段としての面が多分にあった。
つまり、
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