在日ミャンマー人の思いは日本の人々に届いているか
2023年02月22日
論座のレギュラー筆者である小田光康さんが、教鞭を執る明治大学情報コミュニケーション学部の学生とともに、ミャンマーの軍事クーデターから2年の節目の日、東京都内の関係箇所を取材しました。そのレポートをお届けします。
筆者は現在、タイ北部を中心に東南アジア諸国で現地の研究者やNGO職員らと共に狂犬病予防の啓蒙活動に携わっている。発病するとほぼ100%死に至る狂犬病はアジア・アフリカ諸国で猛威をふるい年間約15万人の犠牲者がいる。タイとミャンマーの国境地帯ではいまだ毎年、その被害が出る。とりわけ、少数民族や難民・不法移民、貧困層や児童といった社会的弱者への被害は甚大だ。
一時、アウン・サン・スーチー氏が先頭に立ち、民主化への道を歩み始めたかに思えたミャンマーで2021年2月1日、国軍によるクーデターが起こった。少数民族武装勢力が衝突し、その影響を受けた約2万人ものミャンマー人が難を逃れ国境を越えて隣国タイに逃れたとされる。
ミャンマー東部では、タイとの国境はモエイ川で区切られている。濁流となる雨季にこの国境を跨ぐのは困難だが、水かさが減る乾季には容易に徒渉可能だ。難民が川を渡るようにして、狂犬病の犬も国境を越えてくる。
ミャンマー国境沿いのタイ領内に難民キャンプが9つある。タイ国境の町、メーソート近郊にあるメラ難民キャンプには約3万人の主にカレン族のミャンマー人らが暮らしている。クーデター以降、この付近で狂犬病被害が頻発している。ミャンマー軍の蛮行が新たな難民を生み出し、国境地帯の公衆衛生環境が悪化した。すると狂犬病など感染症被害が拡がってしまった。
2023年2月1日、都内で大規模なミャンマー難民のデモが繰り広げられた。筆者はミャンマー難民問題とミャンマー国境沿いでの公衆衛生問題の関係を探ろうと、明治大学のゼミの学生と共に、このデモとその関係者に取材した。
「STAND UP FOR DEMOCRACY(民主主義のために立ち上がれ)!」「FREE AUNG SAN SUU KYI(アウン・サン・スーチーを解放せよ)!」
陽が沈み始め、冷たい風が吹き始めた午後4時頃、 勇気を象徴する赤色の衣装をまとった、約600人もの在日ミャンマー人たちの声が響き渡った。品川区内にあるミャンマー大使館前で行われた民主化を求めるこのデモには、真冬とは思えぬ凄まじい熱気が渦巻いていた。2023年2月1日はミャンマー国内の軍事クーデター発生からちょうど2年となる節目の一日だった。
「ミャンマーでは人を殺してもいい。何をしてもいい。だけど政治はしてはいけないという暗黙のルールがある。お金を払えば人を殺しても刑務所から出られる。麻薬とか(違法な)薬もやってる。でも政治をすると20年も30年も拷問される」
デモに参加したミョー・ミンスェさんは祖国の現状をこう語る。18年前に留学生として来日、専門学校を卒業後に日本国内で就職した。現在は『WE FOR ALL』というNPO法人の一員としてミャンマーの平和と安定を取り戻すための活動を行っている。
クーデター後のミャンマー国内の社会秩序の混乱と公衆衛生環境の悪化は深刻だ。社会の混乱は第二次世界大戦前の植民地支配とその後の民族対立に由来する。その「連邦」が付く国名が示すとおり、ミャンマー全土には多様な民族が暮らしており、それぞれ独自の文化や言語を持つ。
1885年末の第三次英緬戦争の結果、翌年より英国領インド帝国の一州として統治された。植民地政府は仏教徒であるビルマ族やシャン族、中国・タイとの国境山岳地帯でキリスト教を信仰するカレン族やカチン族、それに西南部に位置するイスラム教徒のロヒンギャ族をそれぞれ分割統治することで植民地統制を目指した。
1948年にビルマ連邦として独立した。ここでビルマ族の軍事政権が支配層となり、他の少数民族との間で衝突が生まれ、常に民族紛争が巻き起こってきたのである。ミャンマーの人口約5659万人のうち7割を占めるビルマ族は、最大都市ヤンゴンを中心とした中央平原地帯に居住する。残りの約3割は少数民族で形成され、タイ、ラオス、中国、バングラデシュとの国境付近の周縁部で生活する。これらの少数民族はシャン族など大きく7つの民族グループに分類され、さらに135もの小グループに細分される。
2年前の軍事クーデターも民族対立の一つだ。アウン・サン・スーチー率いる国民民主連盟(NLD)が2020年11月の総選挙で選挙実施議席の83.2%を獲得し大勝した。これで、およそ半世紀に渡る国軍による政治から逃れこの多民族国家が一つにまとまることで、民主化の道を歩むかのように見えた。
ただ、それに反発した国軍がクーデターを起こし、ミン・アウン・フライン国軍総司令官が事実上の国家指導者に取って代わり国内の立法、行政、司法の三権を掌握した。そして、与党の実質的な指導者であったアウン・サン・スーチー氏らは国軍に拘束された。
1990年代まで、ミャンマー、タイ、ラオスの国境地帯は「ゴールデン・トライアングル」という世界最大の麻薬密造地帯だった。ミャンマーでは民主化以降、麻薬の原料となるケシ栽培から茶やコーヒー栽培に転作する流れが出来つつあった。山岳地帯の麻薬中毒者は減少し、少数民族の村々にもつかの間の平穏が訪れたのである。
しかしクーデター後、ミャンマーでは社会秩序が乱れ、公衆衛生環境も急激に悪化した。軍部の迫害が拡がり、山岳地帯に住む少数民族の生活が困窮した。さらに、新型コロナウイルスの流行がその追い打ちをかけた。生活のための現金欲しさに、あるいは国軍に抵抗する軍資金のために山岳地帯ではかつてのケシ栽培生活に戻ってしまった。
薬物用作物の栽培農民のために持続可能な代替農業を作り出すとともに、防止、治療、再統合を進めている国連薬物犯罪事務所(UNODC)によると、2014年に約6万3千ヘクタールという数字を記録して以降は減少していたミャンマー国内のケシ栽培面積は、2021年に再び少しずつ増加しだし、2022年には前年比3割増の4万ヘクタールに達した。ここで生産された麻薬がミャンマーの都市部でも横行するようになったのだ。大都市ヤンゴンでは一人で夜歩きできないほど治安悪化が深刻だ。
医療や公衆衛生の面でも大きな被害が現れている。「病院では、デモや空襲で怪我をしたミャンマー市民の治療を全然やってくれないです。金持ちが通う病院みたいになっている」とミョーさんは語る。
病院の多くは国軍が運営しているため一般市民への対応が後回しにされているという。世界中の難民の保護や支援に取り組んでいる国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、国軍の無差別攻撃でこれまでの死者数は3000人に達し、ミャンマー国内避難民は150万人を超えている。
社会の混乱はその周縁に行くほど被害が大きくなる。独立以前から長期的に続く対立関係にあるビルマ族とカレン族の居住地帯、タイとの国境を接するミャンマー東部がその典型例だ。タイ政府は1984 年、メーソートから約57キロ北上した場所にメラ難民キャンプを設置した。その地域では、ミャンマー国軍とカレン民族武装勢力間の対立が激化し、主にカレン族の難民が続々とタイ国内に流入した。
同年タイ領内に流入したミャンマー難民は9500人、10 年後の1994 年には約8倍の 7万7100 人に増大し、2005 年には15 万人近くにまで達した。その後、キャンプで生活する難民の受入れに合意した国へ難民を送り出す第三国定住政策が施行され、現在は約9万人まで減少した。
この政策が難民キャンプ内で生活を続ける人々に悪影響を及ぼした。国際支援の減少やNGOの撤退が相次ぎ、教育や雇用の機会が消滅した。さらに公衆衛生環境が悪化し、薬物乱用も増え、精神的に追い詰められる難民が増加した。
ミャンマー国内の混乱は巻き込まれた人々の心までも蝕む。「人が生きていく上では身体的な充足だけではなく精神的な充足もとても重要なんです」。2011年から7年間、メラ難民キャンプで支援活動をしていた、シャンティ国際ボランティア会(SVA:東京・新宿区、若林恭英会長)の菊池礼乃さんは力説した。
SVAは1980年に前身となる団体が設立され、現在はメーソートに事務所を構える。UNHCRなどの国連機関やNGOと連携し、タイ領内のミャンマー国境沿いにある7カ所の難民キャンプで図書館建設やカレン語・ビルマ語での絵本出版、図書館員の研修などの教育慈善活動をしている。
大学生時代から国際的な慈善活動に携わっていた菊池さんは大学卒業後、いったんは一般企業に就職した。だが社会人になってから難民問題に関心を持ち、現在はSVAでミャンマー難民への支援を続けている。
メラ難民キャンプはミャンマー国境のモエイ川からほど近い。歩いて帰れる祖国が向こう岸に見える。だが、故郷に帰還する当てもなく、定職に就くことができずにディアスポラ状態に陥った難民が少なくない。そこでアイデンティティークライシス(自己喪失)を起こしてしまう。しかも、
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください