保護者をお弁当作りから降ろし、真の意味での「異次元の少子化対策」こそ実施を
2023年02月13日
Instagramを開くと、そこにはめくるめく華やかなお弁当の世界。いくつものおかずを立体的に詰め、中には野菜の飾り切りなどもあり、時間をかけたことが一目瞭然だ。
しかし、綺麗なお弁当への憧れは心の中からは消えない。SNSというツールによって、知らなくていいことまで知ってしまうようになり、保護者の弁当作りのハードルは上がっている。SNSがない時代は、「子どもの友達」のお弁当を覗くことはなかった。ところがSNSの登場によって、閲覧可能になってしまった。このことが主に母親に不必要な負荷をかけていることは間違いない。
昨今、社会の根底をなす重要な要素として、ジェンダーに注目が集まっている(筆者が子どもの頃は「性別役割分業」と習った)。要するに「男だからこうするべき、女だからこうするべき」という規範の巨大な絡まり合いを指す。家庭料理に関しても、ジェンダーがより平等な国では食事がシンプルになる傾向が指摘されている。
日本では、朝食といえば炊き立てのご飯に、温かい味噌汁を思い浮かべる方も多いだろう。一方で、ヨーロッパでは、朝食に温かい料理は出ず、パン、チーズ、ハム、コーンフレークなどの「出しただけ」のもので済ませる地域も多いそうだ。それなら誰にでもできる。
朝食と同様、日本の「お弁当」も、諸外国と比べれば非常にハイレベルなものである。筆者が3年間、中学生の息子のために作り続ける中で、弁当にはいくつかの「掟」があることを学んだ。
これらの特徴によって、弁当は通常の家庭料理よりもワンランク上の作りにくさをともなう。つまり、複数の要素を同時に考えながら作らなければならないということだ。
今日ではひと段落した様子もあるが、一時期は小さな子どもたちへの「キャラ弁」も加熱していた。そのころ筆者は、「食べ物に手を加えることで、別のものに見立てることは、きっと懐石料理から由来している。枯山水庭園の見立てにも通ずるな、日本文化だ」と自分を納得させていた。しんどさを感じつつも頑張ることから降りられない、そんな母親である。
本稿のテーマは、このしんどさから降りるにはどうしたらいいのかという問いである。弁当作りをやめて、コンビニに任せてもいいはずなのに、それでもそうはいかないのはなぜなのか。
筆者が弁当作りをこのように「こじらせる」ようになったのは、何かの本で出会った「お弁当は手紙です」というフレーズだ。手紙を投函してから、開封されるまでに時間が経つように、その時間の変化の中でも伝えたいことは何か。シンプルに答えるならば「愛情」ということになるだろう。
夫(サラリーマン)・妻(専業主婦)・子どもという核家族が定着し始めたのが、今から百年ほど前の大正時代である。主婦は「主婦業」を担う存在とされ、様々な主婦雑誌・料理雑誌が誕生した。「愛情弁当」が誕生したのも、このあたりかと思いきや、意外と最近のことである。新聞記事の分析から「愛情弁当」の登場を追ったのが、野田潤氏の研究である(「近代日本の家族における「食=愛情」の論理と手作り料理に求められる水準の上昇―新聞記事の分析から―」東洋英和女学院大学『人文・社会科学論集』第39号, 2021年度)。
実は家庭で作られた弁当に対しては江戸時代から「腰弁」という言葉があったが、武士の安月給をも意味していた。それが「愛妻弁当」「愛情弁当」に替わっていったのが1970年代だという。長かった食糧難の時代が終わり、飽食の時代へと入る中で、弁当の位置づけも変わっていったということになる。
せいぜい50年の歴史しかない言葉だが、現在もはねのけがたい重さを持っている。それが特によくわかるのが、大都市での首長選挙のときだ。現在、全国の小学校ではもちろん給食が実施されているが、中学校にかんしては給食が実施されている自治体とそうでない自治体に分かれている。実施されていないのが、神奈川県、京都府、兵庫県などである。
これらの自治体の選挙のたびに、中学校給食は争点の一つになり、反対する側は「愛情弁当が大事だ」といったロジックを用いてきた。真の争点は愛情うんぬんではなく、設備投資・人件費の是非なのだが、人心に訴えるフレーズとしてなかなか乗り越えられないものがある。
文科省のデータも見てみよう。
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