メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

自然と文化ふれあう“和のリゾート” 野沢温泉村物語(上)スキー編

【20】始まりは村民有志によるスキー倶楽部の設立

沓掛博光 旅行ジャーナリスト

 新型コロナの感染が始まって早くも3年が経過した。一時は不要不急の外出は避けられ、全国の観光地は苦境を強いられていた。そうした厳しい状況にありながら健闘している観光地があった。長野県の野沢温泉村である。

 名は体を表すの通り、この村は昔から名湯が湧く地として知られているが、今日においてはパウダースノーが楽しめるスキー場として国内外からの人気が高い。人口わずか3500名の小さな村になぜ国内外から多くの観光客が訪れるのか。観光を軸とした村づくりがどのような仕組で進められているのか。野沢温泉村の根底に潜む観光の魅力と力の源を探ってみた。

コロナ禍前のにぎわい取り戻した野沢温泉スキー場

 野沢温泉村は長野県の北部にあり、村の西側を千曲川が流れ、東南側に村内の最高峰、毛無山(1650メートル)がそびえている。北陸新幹線の飯山駅、または上信越道豊田飯山IC方面よりやってくると道が大きくカーブしたあたりから村が一望できる。正面に尾根を左右に広げた毛無山を望み、その谷を下ったところに温泉宿などが立つ集落が広がっている。山に守られ、谷に包まれた村であることがよくわかる。その谷筋に沿ってゲレンデが延びている。

毛無山(中央右手奥)を頂点にして尾根が続き、麓に野沢温泉村の集落が広がる(筆者撮影)

 多くのスキーヤーでにぎわうそのスキー場へまず足を運んでみた。山上のゲレンデへは日影地区と長坂地区の2箇所からゴンドラリフトが延びている。今回は3年前の12月に新たに付け替えられた長坂ゴンドラで上がってみた。

 集落の背後、山際に立つ長坂センターハウスから毛無山の山頂近くまで延長約3130メートルを8分40秒ほどで一気に上る。以前は中間駅を経由しての移動だったが今はその不便さが解消され、スキーヤーなどに評判がいい。総工費は約30億円。コロナ禍の時期ではあったが先を見越しての決断と財政の裏づけは野沢温泉スキー場の力強さを物語っていると言えるだろう。

 山上のやまびこ駅に降りると平日にもかかわらずカラフルなスキーヤーやスノーボーダーであふれていた。駅そばのレストハウスやまびこも同様で、昼食時分のせいもあったが、満席状態。それも目にする多くは外国からのスキーヤーである。一瞬、ここはスイスかどこか外国のスキー場かと思えるような光景が広がっていた。

 野沢温泉スキー場のスキーシーズン(年によって多少異なるが、おおむね12月上旬から翌年の5月上旬まで)における来場者数(野沢温泉スキー場調べ)を見ると、平成29年度(2017~2018)が約40万9100人、同30年度(2018~2019)が約42万1500人と続き、コロナ禍に入って令和元年度(2019~2020)が約34万1800人、同2年度(2020~2021)が約22万2400人、同3年度(2021~2022)が約29万2500人と減少傾向にあったが、4年度(2022~2023)にあたる今シーズンはコロナ感染も落ち着き、海外からの入国制限も緩和されたことなどもあり、国内外からの入場者数が急回復している。

 スキー場の話では直近1月の入場者数は対前年で157%となり、、このまま積雪などに大きな変化がなければコロナ禍前の水準に近づくのではないかと予測する。なお、海外からのスキーヤーは野沢温泉観光協会などの統計から見るとおおむね全体の2~3割ほどになっており、地域別ではオーストラリアやニュージーランドなどのオセアニア地域からが65%前後と断トツに多く、次いでアジア地域が25%前後、ヨーロッパ、北米が11%前後となっている(2020~2021年)。

標高は高いがゆるやかな斜面が広がる上ノ平ゲレンデ。雄大な眺望が楽しめる(筆者撮影)

 レストハウス横の上ノ平ゲレンデに出てみるとこちらも大賑わいで、日本語と共に英語やフランス語などが飛び交い、青空をバックにそびえる妙高山など美しい景色を望みながらスキーを楽しんでいる。レストハウス周辺は標高が1400メートルほどあるが、一帯はなだらかに傾斜したゲレンデが広がり、小さな子供連れのファミリーなども散見できる。

初心者でもスキーの醍醐味が味わえる元オリンピアンも太鼓判のゲレンデ

 野沢温泉スキー場の片桐幹雄社長にうかがうと、このスキー場の魅力のひとつが、上ノ平ゲレンデのように標高が高いところでも傾斜がゆるやかである点で、こうしたスキー場は世界でも珍しいという。

 「初心者の方もお子様連れも安心して滑れます。通常なら上級のスキーヤーしか味わえない山上からの雄大な景色をビギナーの方も楽しめ、スキーの醍醐味を体で感じられるのです」という。ゲレンデで出会った地元の森博美さんは孫を連れて一緒にスキーを楽しんでいたが、「この子は2歳から滑り始めました。ここなら安心して滑れるんです」と話してくれた。

 その一方で、日本1長い10キロの最長コースもあり、幅広い層に応える多様な44のコース・ゲレンデが297ヘクタールのスキー場に広がっている。それに加えて、さらさらとしたパウダースノーが、特にオーストラリアやヨーロッパなど海外からのスキーヤーに喜ばれている。

冬季オリンピックに2回出場した野沢温泉スキー場の片桐幹雄社長(片桐社長提供)

片桐社長は、スキーに関心の深い方ならすでにご存知かと思われるが、日本を代表するアルペンスキーの名手で、過去2回の冬季オリンピック―インスブルック大会(1976年)及びレークプラシッド大会(1980年)―に出場したオリンピアン。その後全日本スキーナショナルチームのアルペンコーチ及びバンクーバー、ソチ両オリンピックのアルペン監督などを歴任している。世界の主要なスキー場を体験し、スキーの技を知り尽くしたいわばスキーの大御所であるだけに、片桐社長が語る野沢温泉スキー場の魅力には説得力がある。

100年前も前に村民有志がスキー倶楽部設立し、スキー場を開設

 野沢温泉とスキーの関わり合いは古い。よく知られるように我が国にスキーが初めて伝えられたのは明治44年(1911)。オーストリアのレルヒ少佐が新潟県の高田で指導した。その翌年の明治45年(大正元年)に旧豊郷村(現在の野沢温泉村)に隣接する現在の飯山市にある旧飯山中学校の教員がスキー講習会に参加。この技術を旧豊郷村出身の生徒に教え、同年に生徒たちが野沢温泉で初めてのスキーを滑った。

 以後、大正2年の全国スキー大会への出場や同3年の小学校でのスキー授業の導入、同11年(1922)の雪を加工して作ったシャンツェ(ジャンプ台)の登場、ジャンプ競技の開始などスキー技術の伝搬、向上は年々拡充され、同12年(1923)12月8日に村民有志23名による野沢温泉スキー倶楽部(後にクラブと改称)が設立された。

 その目的は、当時の倶楽部の活動を記録した部務報告の大正12年10月1日の項に“山嵜英次氏 冬ノ雪ヲ利用シ我ガ野沢温泉ヲ天下二廣告セントスル第一歩「スキー」倶楽部ヲ組織セントス”と記している。倶楽部設立の目的は冬の厄介ものと言われた雪を活かすためにスキーを普及させ、野沢温泉を広く全国に伝えて冬季の湯治客の減少防止とスキー客の誘致、村の暮らしの向上、発展を目指すものであったと言える。

 当時は温泉を利用した湯治も村の主たる収入の一つであったが冬季は訪れる人が少なく、スキーの導入によって新たな客層の開拓が求められていたのである。今日的に言えば、スキーを活かした村づくり、村の経済、暮らしの活性化を目指したと言えよう。

 その倶楽部が作られて今年で100周年を迎える。設立翌年の大正13年(1924)には自力で野沢温泉スキー場を開き、昭和5年(1930)に初の全国規模の大会である明治神宮スキー競技会を開催。昭和12年(1937)から村の教育委員会と連携して倶楽部の会員が小中学校の児童生徒にスキー学習を実施し、子供のころよりスキーに慣れ親しむ環境を整えることで、正しい技術の取得、向上に向けて協力している。

村民有志によるスキー倶楽部を母体に誕生したスキー場。今日では最新鋭のゴンドラが設置され、第1級のスノーリゾートとして人気が高い(筆者撮影)

 戦後は国民体育大会や全日本スキー選手権大会などを主管。昭和38年(1963)にスキー場経営を野沢温泉村に移管した。スキーブームの到来と共に入場者も増加し、平成3年(1991)にはスキー場収益が過去最大の約49億円になった。

 昭和51年(1976)には我が国初のスキー資料館が村立でオープン。後に博物館となり、スキー伝搬のころの資料から現代のオリンピックやワールドカップ出場選手の装備、あるいは昭和5年(1930)に来村し技術指導を行った「近代アルペンスキーの父」シュナイダ―(オーストリア)の滑降写真などスキーに関する資料を収集、展示している。

 海外諸国との連携では平成7年(1995)に世界35カ国、4000人が参加したインタースキー(世界指導者会議)野沢温泉大会が開催され、この3年後に長野冬季オリンピック/長野パラリンピックのバイアスロン競技会場にもなった。そして同17年(2005)にスキー場は再び民営化された。

スキー場が減少する中、全国規模の大会を連続して開催

 野沢温泉スキークラブの活動目的のひとつはスキーの普及と村の暮らしの発展である。その精神は今も受け継がれ、国体など大きなスキー大会の開催を積極的に引き受けている。それはスキーという雪上の競技や雪原を滑降する楽しみの火を絶やさぬようにという村民のスキーに寄せる理解と努力と情熱の表れとも言えよう。

 野沢温泉スキー場を会場にして開かれた直近の大会では、たとえば全国高等学校選抜スキー大会が第26回(2014年)から35回(2023年)まで10回連続してあり、全国中学校スキー大会が29回、44回、51回の後、57回(2020年)から60回(2023年)まで4回連続して開かれ、野沢温泉村が共催、野沢温泉スキークラブが主管となっている。

 全国中学校スキー大会ではこんなエピソードも残されている。野沢温泉観光協会発行の2020年2月のリリースによると、例年になく降雪量が少なかったこの年、第57大会の開催を前にして「大会をやるべきか、中止すべきか」と関係者が迷った際に、野沢温泉スキークラブは「万難を排して大会をやりましょう。子供たちの人生がかかっているから」と訴え、クラブ員、スキー場スタッフなど関係者が総力で雪を集め、大会を成功させたと伝えている。「あの時は涙がでるほど感激しました。これこそが野沢温泉のスキーを支えてきた魂だと思いましたね」と当時の野沢温泉観光協会の森行成会長は語っている。

野沢温泉スキー場では様々な大会が開かれ、スキー技術の向上とスキー場の維持に貢献している(野沢温泉村役場提供)

 スキー競技大会の舞台となるスキー場は、我が国では残念ながら年々減少傾向にある。日本鋼索交通協会の調べでは平成11年(1999)の698カ所をピークに令和3年(2021)には440カ所と35%近く減少し、スキー技術を磨いたり、スキーを楽しんだりする場が先細りになっているのが実情である。

 「アルペンやジャンプなどの多種目を競う大きな大会を開催し運営できるスキー場は今や全国でも少なってきました」と河野博明日本スノースポーツ&リゾーツ協議会常務理事は言う。そういった点で野沢温泉スキー倶楽部とスキー場はスキースポーツの維持、向上に無くてはならぬ存在と言える。

 一方で大会を行うことにより全国に野沢温泉村のスキーが伝えられ、選手の強化促進や国内外の人材の交流、育成が図られ、その結果、村の経済にも貢献するという効果も生まれてきている。スキークラブ設立の理念は今も生きているのである。

 「野沢温泉村にとってスキーは村の暮らしを支えると共に、人を育てる柱の一つでもあると言えるでしょうね」と河野さん。

 選手強化の面では、先の片桐幹雄社長を始め16人のオリンピック選手を今日まで輩出している。人口比でみれば恐らく日本一の数ではないだろうか。これだけのオリンピアンが育ってきたのは、雪が降るから、スキー場があるからだけではなく、先に挙げた野沢温泉スキークラブによる技術指導とスキー場の収益を原資にした財政的支援などがあればこそと思われる。

・・・ログインして読む
(残り:約773文字/本文:約5722文字)