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「忘れられた」ミャンマー難民~祖国に帰れず、逃れたタイでも定住できず

3万人が暮らすメラ難民キャンプで希望を失う人々

明治大学情報コミュニケーション学部  小田光康、関口樹、大橋直輝、森下奎志

門で閉ざされたメラ難民キャンプの入り口=2023年3月10日、タイ・ターク県門で閉ざされたメラ難民キャンプの入り口=2023年3月10日、タイ・ターク県

 ミャンマーの軍事クーデターから2年がたった現在、タイ国内に流入するミャンマーからの難民や不法移民の問題も深刻化しています。論座のレギュラー筆者である小田光康さんが、教鞭を執る明治大学情報コミュニケーション学部の学生らとともに、タイ国内にある難民キャンプやそこで活動する非政府組織(NGO)などの関係箇所を取材しました。そのレポートをお届けします。

国境の街メーソート

 ミャンマーとの国境の町、メーソートの朝は早い。中心部にある市場は日が昇る前の午前6時くらいから賑わい始める。日中は連日35度を超える猛暑になるが、乾季には湿度が低く、朝晩は23度程度の過ごしやすい気温まで下がる。車体の前方に大きな荷台を付けたスクーターが市場の中の狭い路地のわずかな隙間を縫うように行き交う。道端にはドリアンやマンゴー、スイカなど南国ならではの果物が所狭しと並んでいる。豚や牛の頭やタガメなど日本人にはなじみの無い食材まで色とりどりだ。

多くの人々で賑わうメーソートの朝市=3月9日、タイ、ターク県多くの人々で賑わうメーソートの朝市=3月9日、タイ、ターク県

 バンコクから直線距離で北西約375キロメートルに位置するこの町は、アジアハイウエー1号線に架かるタイ・ミャンマー第一友好橋を通じてミャンマー側のミャワディとの交易で栄える。ちなみにこの高速道路の起点は東京の日本橋で、2万キロ以上の道のりを経てトルコとブルガリアの国境までつながる。

 ミャワディと接するメーソートは人種や民族の交差点として知られる。タイ人の他にも、金色の「タナカ」を頬に塗ったカレン族、紫紺の生地に細いストライプ柄のロンジーを腰に巻いたミャンマー人、漆黒のヒジャブを纏った女性イスラム教徒、そして鮮やかなピンク色に染め上げた花柄模様の民族衣装を纏った山岳少数民族が市場を往来する。

 タイ政府の2020年の推計によると、メーソートの人口は約9万人。そのうち約3万人がミャンマーからの移住者や難民とされる。ミャンマー軍事政権への反体制活動家や難民支援団体がこの町に拠点を構える。また対岸のミャワディでは2010年に同国内の総選挙を取材しようとして入国した日本人が警察当局に拘束された事件があった。こうした背景もあり、メーソートとミャワディの町並みは明るく賑わいながらも、なんとなく殺伐として陰鬱な雰囲気が漂う。

約3万人が暮らす「町」メラ難民キャンプ

 経済成長著しいタイ国内の道路事情は良好だ。メーソート中心部を走る国道105号線は片側3車線に加えてオートバイ通行用の幅広い路肩があり、全幅で100メートルはある。車でおよそ1時間、ミャンマー国境のモエイ川沿いを走るこの国道を北上すると、しだいに道の両側をチークの森に囲まれた片側1車線の田舎道になる。3月のこの時期は雨がほとんど降らない乾季で、ほこりっぽく落ち葉も多い。

 曲がりくねった一本道を抜けるとタイ軍の検問所が現れた。小脇に銃を抱えた兵士が一台一台車を止め、車内やトランクを細かに点検していた。不法移民や難民を取り締まるためだ。前方を走っていたピックアップ・トラックの荷台には10人ほどが乗り合わせていた。兵士はその一人一人の表情を観察しながら、身分証明書を確認していた。

メラ難民キャンプ入口付近の様子=3月10日、タイ・ターク県メラ難民キャンプ入口付近の様子=3月10日、タイ・ターク県

 筆者らは無事に検問所を通り抜け、閑散とした国道105号線のなだらかな山道をひた走った。するとその先に、遠くの山の急斜面にまであばら屋がびっしりと連なる集落が現れた。竹などを使った簡易な住居の屋根は、チークの葉が敷き詰められていた。この葉は長さ1メートル、幅50センチと巨大なものもある。一時的な難民キャンプなので、建前上は恒久的な施設が設置できない。このため、こうした簡易住居となる。一軒一軒の住居が隙間なく並び、舗装されていない狭い路地には洗濯物が干されていた。

メラ難民キャンプの外観=3月10日、タイ・ターク県メラ難民キャンプの外観=3月10日、タイ・ターク県

路地に干された洗濯物=3月10日、タイ・ターク県メラ難民キャンプ前路地に干された洗濯物=3月10日、タイ・ターク県メラ難民キャンプ前

 ここがミャンマー国内から逃れてきた主にカレン族のためのメラ難民キャンプである。国境線から東に約10キロの地点にある。ミャンマー国軍とカレン民族武装勢力間との対立を背景に1984年、国連とタイ政府が設置した。鉄条網で囲われたおよそ2.5キロ平方メートルのこのキャンプには約3万の人々が暮らす。筆者らが車を降りてその入口に向かうと、門兵が慌てて近づいてきて道を塞いだ。タイ内務省が管轄しているキャンプへの出入りは厳しく制限されている。

 「現在、タイ政府が外から人が入るということを非常に厳しく制限している。(約2年前のミャンマーの軍事クーデター以降)一般人が入ることは難しい」。この難民キャンプで支援活動をする日本のNGO団体、シャンティ国際ボランティア会(SVA:東京都新宿区、若林恭英会長)東京事務所の菊池礼乃さんがこう説明した。結局、門兵からはキャンプ外からの写真撮影と監視小屋のトイレ使用のみ許可された。

 ただ、この厳しい管理体制はキャンプの隅々まで及んでいるわけではないようだ。キャンプを取り囲む竹と有刺鉄線で組まれた簡易柵の高さは2メートルもなく、大人であれば容易に乗り越えられる。また、人が通り抜けられる大きな穴が柵の至る所に開いていた。

メラ難民キャンプを取り囲む柵には無数の穴がある=3月10日、タイ、ターク県メラ難民キャンプを取り囲む柵には無数の穴がある=3月10日、タイ、ターク県

 メラ難民キャンプは国道沿いに約4キロに渡って3−4カ所の入口がある。別の入口付近には売店が数軒立ち並んでいた。ココナッツミルクともち米を混ぜて練ったタイ菓子「カノム」やタイの逸品サラダ「ソムタム」に使う青パパイヤ、さらにはバッグやエプロンといった生活用品から子どものおもちゃまでが売られていた。

 筆者らがカメラを構えてキャンプ内部を覗き見ていると、柵の向こう側から子供たちが笑顔で手を振り、「こんにちは」や「ありがとう」と日本語で声をかけてきた。この難民キャンプは仮設施設とはいえ、実際には一つの大きな町だ。この中で、避難してから長年に渡り暮らす人々も多い。ここで生まれて、ここで育った子供たちもいる。当然、そこには人々の生活がある。

 キャンプ内には国際NGOや住民が設立した病院、仏教寺院やキリスト教の教会、小学校から短期大学、図書館といった教育施設がある。例えば、その小学校では、かつてミャンマー国内で学校教育を受けた住民が教師となり、子供たちにカレン語の読み書きを教えている。また、SVAはビルマ語やカレン語の訳語を付けた日本語の絵本を提供し、その読み聞かせなどの活動をしている。簡単な日本語を話す子供がいるのは、過去に日本人ボランティアもここで活動していたためだ。さらに、国際NGOの協力を得て、短期大学では公衆衛生の課程が設置され、キャンプ内の衛生環境の維持に役立てている。 ただ、これらの学校はすべて非公式なもので、キャンプ住民が自主的に運営しているものだ。

英国の分割統治が生んだ悲劇

 そもそも、難民とはどのような人を指すのか。国連が採択した1951年の難民条約と、1967年の難民の地位に関する議定書の2つを併せて難民条約という。この議定書で難民は「人種、宗教、国籍、政治的意見または特定の社会集団に属するという理由で、自国にいると迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れ、国際的保護を必要とする人々」と定義されている。

 ミャンマー難民は、軍事政権下にあるミャンマー連邦共和国内の民族紛争から逃れるために国外へ流出し、難民化した人々のことを指す。その起源は第二次世界大戦以前の植民地支配にまで遡る。

 1885年末の第三次英緬戦争の結果、ミャンマーは翌年からイギリス領インド帝国の一州として統治された。植民地政府は仏教徒であるビルマ族やシャン族、中国・タイとの国境山岳地帯でキリスト教を信仰するカレン族やカチン族、それに西南部に位置するイスラム教徒のロヒンギャ族をそれぞれ分割統治するという方法で植民地統制を目指した。この分割統治がその後のミャンマーの悲劇を生んだ。

 1948年にビルマ連邦として独立したがビルマ族の軍事政権が支配層となり、他の民族間で衝突が生まれた。内戦が悪化した1995年を機に、戦乱を避けるため隣国タイに流入したミャンマー難民の数が急増する。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、ミャンマー国境付近には約30年に渡ってのべ14万人以上のミャンマー難民が滞在している。この難民問題解消のためUNHCRは2005年、難民キャンプがある国以外への移住を推進する「第三国定住プログラム」を開始した。日本も2010年からこのプログラムを試験的に受け入れてきた。

 2011年時点での国別のこのプログラム参加希望者を見ると、ミャンマーが最大で2万1290人で、移住希望先は主に米国であった。ただ、米国政府が2013年にこの受け入れを停止した一方、翌2014年にはタイ政府がミャンマー難民の流入を厳しく制限した。2016年にはタイとミャンマーの政府間で難民の任意帰還計画が合意に達した。

 タイ政府は現在、ミャンマーから流入した人々の難民登録も、タイ国内定住も認めていない。こうした背景もあり、メラ難民キャンプなどで暮らす人々は曖昧な立場となり、「忘れられた難民」と呼ばれる。2019年7月時点でタイ国内のミャンマー難民の数は約9万6000人にのぼる。キャンプ内で活動するNGO団体や学校で就業する人々も多く、帰還者が増加しない一因といわれる。

 「コロナ禍とクーデターによって、難民帰還の動きは全く止まってしまった」

 SVA東京事務所の菊池さんがそう話すように、2年前の軍事クーデター以降、ミャンマー国内では社会秩序が乱れ、コロナ禍も相まって公衆衛生環境も急激な悪化の一途を辿る。事実上の軍事政権下にある祖国へ戻ることは、極めて厳しい情勢が続く。

 なぜミャンマーの人々がいとも簡単に国境を越えられる状態が続くのだろうか。タイとミャンマーの国境がモエイ川である。この川はメーソートから北にあるメーホーソン県でチベットを源流に求めるサルウィン川と合流し、やがてアンダマン海に注ぐ。降雨量の多い5月から10月にかけての雨季には水かさも増し濁流となって渡渉することは難しい。しかし、乾季であれば水位も下がり、川幅も狭くなって容易に渡ることができてしまう。

モエイ川を渡るボート。手前がタイで向こう岸に見えるのがミャンマー=3月10日、タイ・ターク県ターソーンヤーン郡モエイ川を渡るボート。手前がタイで向こう岸に見えるのがミャンマー=3月10日、タイ・ターク県ターソーンヤーン郡

 筆者らが実際にメーソート郊外のこの川岸を歩くと、国境警備隊の姿も無く、両岸には簡易なボートも数艘係留されていた。夜間など人目に付かない時間帯ならばミャンマーから逃れる人々がこの川を渡り、タイに入国することは容易だ。渡った側のタイ国境は同じ民族で同じ言葉を話すカレン族が多く住む地域である。ここで受け入れられ、同化してしまう。

 タイでの定住が許されないミャンマー難民には、祖国へ帰還する選択肢が残されている。ただ、2年前の軍事クーデター勃発以降、ミャンマー国内では社会秩序が乱れ、コロナ禍も相まって公衆衛生環境も急激な悪化の一途を辿る。事実上の軍事政権下にある祖国へ戻ることは、極めて厳しい情勢だ。

支援NGOはコロナ禍で減少

 「クーデターとコロナ禍で効果ある支援の方法を模索し続け、とても苦労しました。以前のようにキャンプへ直接足を運び活動をしたり、対面で議論を交したりなど、通常のことができなくなりました。細かいことで何度も遠隔でのやりとりを重ねました」

 SVAのミャンマー(ビルマ)難民事業事務所のセイラーさんはこう話した。町の中心を走る大通りから一本外れた通りにその事務所があった。筆者らが到着するとセイラーさんとウェンさんが笑顔で出迎えてくれた。中に入ると日本語からミャンマー語やカレン語に翻訳された多数の絵本が並べられていた。ここを拠点にメラ難民キャンプなどミャンマー国境の難民キャンプで本を通じた教育文化支援活動を行っている。

シャンティ国際ボランティア会の方々。左からセイラ―さん、ウェンさん=3月9日、タイ、ターク県メーソート郡の同事務所内シャンティ国際ボランティア会の方々。左からセイラ―さん、ウェンさん=3月9日、タイ、ターク県メーソート郡の同事務所内

 1980年に設立された「曹洞宗東南アジア難民救済会議(JSRC)」を起源とするこの団体は2000年、ミャンマー軍事政権の弾圧からタイへ逃れてきた子どもたちを支援するためメーソートに事務所を構えた。国連機関や他のNGO、難民委員会などと連携し、難民キャンプで図書館の建設や絵本の出版、図書館員の研修などの活動をしてきた。

 現在、この事務所には6人のタイ人スタッフが勤務している。これまで合計7つの難民キャンプで24カ所の図書館を設置した。それぞれの図書館には2人の館員を置き、その他ボランティア約200人で運営している。

 約3年前にタイ国内でコロナ禍が始まると、保健機関を除きSVAを含むすべての国際NGO団体が難民キャンプへの立ち入り禁止になった。図書館の運営はキャンプ内の図書館員と遠隔で連絡を取り、感染対策を徹底した上で続けていた。ただ、キャンプ内で感染者が出て、一時閉館を余儀なくされた。

 難民の人々にとって、図書館で過ごす時間はただ単に絵本や本を読むだけではない。「外界との接触の機会が少なく、閉鎖されたキャンプ内では自分の民族の母語で書かれた絵本を通して、自分のルーツやアイデンティティを知ることができるんです」。SVA東京事務所の菊池さんはそう語る。

 一時ロックダウン状態であった難民キャンプ内でもワクチン接種が進み、少しずつ以前の生活が戻りつつある。現在では国際NGO団体のキャンプ内への立ち入りも許可され、SVAのスタッフも図書館に足を運び、運営支援を継続している。難民キャンプ内での感染対策が緩和され、小学校の放課後には多くの子どもたちが絵本を読みにやってくる。

 ただ、それまでこの難民キャンプを支援する国際NGOは18団体あったが、コロナ禍を経てその数が13団体まで減ってしまった。以前のような支援が行き届いておらず、祖国帰還の目途も立っていない。キャンプ内では定職に就けず、希望を失い現実から逃避するために麻薬中毒やアルコール中毒に陥る若者が増えている。

 「忘れられた難民」の日常はきょうも続いている。