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小児科医から「人工冬眠」研究者への転身に迷いはなかった~理化学研究所の砂川玄志郎さん

亡くなる子どもたちを目の当たりにし、救える命を少しでも増やすための研究へ

東大〈宇野ゼミ〉学生 富塚清芽、吉村綾乃、安藤聡

 東大で約300人もの学生が在籍する大人気「ゼミ」がある。

 大和総研リサーチ本部副部長の肩書を持つ宇野健司さん(今春で退職)が非常勤講師として担当する講義「問題解決のための思考法」、通称「宇野ゼミ」。アクティブ・ラーニング方式で運営されているこのゼミでは、学生同士がディベートを交わし、時にはグループワークを設け、自らフィードバックを行う。アウトプットも重視しており、その一環として、学生たちがそれぞれの関心の下、各分野のフロントランナーたちにインタビューする活動も始めている。

 
 そこで今回、宇野ゼミと論座編集部の協同企画として、学生2人の「取材」に同行し、そのインタビュー記事を論座に寄稿してもらうことにした。テーマは「進路に悩む人に向けて」。

 第1弾のインタビュイーは、理化学研究所で冬眠生物学研究チームを率いる砂川玄志郎さん。人工冬眠の研究者として有名な砂川さんだが、研究者になる前は小児科医の臨床医だった。若いころにはプログラマー、政治家を志したこともあったという。素人にとっては「永遠の命」「未来旅行」といったSF的発想をついついしてしまう「人工冬眠」の世界に飛び込んだきっかけは何だったのか、幾つもの選択肢のなかから進むべき道を選んだ大きな理由とは、転身に不安はなかったのか……。自らの過去を振り返りながら、若い世代に向けたメッセージを語っていただいた。

砂川玄志郎さん砂川玄志郎さん

〈すながわ・げんしろう〉国立研究開発法人「理化学研究所」生命機能科学研究センター「冬眠生物学研究チーム」チームリーダー。1976年福岡県生まれ。京都大学医学部卒業後、大阪赤十字病院と国立成育医療研究センター(東京都世田谷区)に小児科医として勤務。2005年秋にたまたま手にした科学雑誌をきっかけに冬眠に興味を抱き、職を辞して睡眠研究の道へ。2015年から理化学研究所でマウスを用いた冬眠研究を開始し、現在、冬眠の臨床応用を目指して研究中。

「人工冬眠」は、皆さんのイメージ通りのもの(笑)

――砂川さんは「人工冬眠」の研究者ですが、イメージがいま一つ浮かばない人が多いと思います。どのようなことを日々、研究されているのでしょうか?

 最終的には人間の冬眠を目指しているので、いずれは人間で試したいんですけれど、人間で試すには色々な壁があるんです。例えば病気の治療にかかわる新薬の研究であれば、「この病気を治す」という目的のための研究ということで、治験など様々な方法で新薬を試す方法があるんです。でも人工冬眠は「そもそも人間に無い能力を植えます」というかたちになるので、人に試すのは新薬よりもかなり敷居が高いんです。なので今は、しっかりとした基礎研究を行って、まずは冬眠できない動物を冬眠できるようにすることを目指して研究を進めています。

――動物を用いた研究がメインになっているんですね。

 動物だって命あるものなので、必要最低限にしましょうというのが、今の科学の考え方です。ですので、動物実験は本当に最後の最後みたいな感じです。それでは普段はいったい何を使っているのか、何をしてるのかとお思いかもしれませんが、細胞を使った実験は許されているんですよ。例えば、iPS細胞やES細胞という、人でも動物でもその細胞から色々な臓器を作れるスーパー細胞があるんです。そういうものを使って研究している限りは動物を犠牲にせずに済むということで、細胞実験を中心に行っています。

――そもそも人工冬眠の研究は、どういう目的のために行われているのですか?

 そうですね。まずは冬眠についてお話ししますね。人工冬眠というと、皆さん頭の中にふわっとした何かしらのイメージがあると思うんですけれど、多分大体合っていると思うんです(笑)。

 冬は食べ物がないから眠っておこうというのが冬眠です。何か月間も食べ物を食べないということです。動物は生きている間はエネルギーを使い続けるので、もちろん寝ている間もエネルギーを使います。だから、寝てる間に使うエネルギーの分は食べ物を食べないと死んでしまうわけですが、冬眠中の動物は、食べた量に対して、明らかにそれよりも長く飢えずに生きていられています。一日当たりに使っているエネルギーが通常よりもずっと低いわけですね。「基礎代謝」という言葉を聞いたことがあると思うんですけど、一言でいうと、冬眠というのは「基礎代謝を究極的に下げた状態」です。動物が持っている、自然に生み出された省エネモード、といったイメージですかね。

 それで、その冬眠を人間につかったら何が嬉しいかという話なんですけれど、私はこう見えても、大学を出て5年間くらいは真面目に小児科医をやっていたんですよ。

――研究者の前は小児科医をやられていたんですね。

 そうなんです。それで、重症のお子さんを治療するときに、一生懸命やって峠を乗り越えられたらそれでいいんですけれど、最先端の医療技術とスタッフがいて、それでも助からないということがあって。後は祈るのみになってしまう。そういうケースを小児科医時代にいくつか経験して、もう一押しあれば何とかなるのに、という思いに駆られていました。

 それに、子どもには無限の未来が待っているじゃないですか。助かった後のいろんな広がりを考えると、どうしても子どもを助けたいと思うんです。大人は生活習慣だったり今までの積み重ねだったりで、こういう体をしていたら血管詰まったって仕方がないよね、みたいに納得できることも多いです。それに対して、子どもは、運なんですよ。たまたまインフルエンザウイルスが頭に入ってしまったとか。そういうこともあって、子どもがあと少しで助かったのに、と色々と思うところがあったんです。

マダガスカル島のキツネから、未来が開けた

――「人工冬眠」がその「あと少し」を解決するカギになると。

 はい。何か方法がないかと思っていた時に、冬眠をする霊長類が存在するという論文がある科学雑誌に掲載されているのを見かけたんです。マダガスカル島のフトオコビトキツネザルという種なんですけれど。それを読んだときに僕は衝撃を受けて「キツネザルが冬眠できるんだったら人間にも同じことができるでしょ」と思ったんですよ。その論理はかなりの部分間違っていたんですけれど(笑)。論文を見た瞬間に「もうこれはいけるわ」と思って、その「あと少し」といったところを冬眠で解決する、というイメージが出来上がってきてしまったんです。人工冬眠が実現すれば、医療現場において死にかけている人たちの代謝を下げ、もう一歩時間を稼いだり治療の余地を残すことができる。まだまだ実現まで距離はありますが、それを一番のゴールにしています。

――小児科医時代、どうしようもなく亡くなってしまう子どもたちがいたときに、その科学雑誌を見たのがきっかけだと。

 そうですね。たまたま雑誌を見たのは結構でかくて。その論文は2004年に出たんですけれど、僕が見たのは2005年なんですよ。半年くらいずれがあるんです。お医者さんが集まる部屋に誰かが無造作に放置した雑誌の中にそれがあって。で、僕がぼうっとしながら読んでたら、「お、すげー」みたいな感じで、たまたま見つけて。本当にたまたまなんです。

――もともとお医者さんだったところから、たまたま見た雑誌をきっかけに研究者になったということですが、そこに結構ギャップがあったと思うんです。医師をやっていたときと研究者をやっている現在では、充実度に違いはありますか。

 充実度……難しいですね。結構これまで充実していて、自分、かなり恵まれているんですよ。恵まれているって言ってもお金って意味じゃなくて、環境とか人に恵まれていて。もちろん自分が医者から研究者になった時も、ちょっとは悩みましたけれど、ほんとに雑誌見て5分悩んだくらいで。雑誌見て人工冬眠が可能だって思ってからは本当にもう気持ちがぱあっと変わりました。

 これは僕の性格かもしれないんですけど、今まで人生の岐路みたいなものはいくつかあったはずなんですけど、決断した後はあまり振り返っていないというか。何かを選んだあとって、選んだあとからは変えられないじゃないですか。だから、考えても意味ないよねって思ってしまうんですよね。

その時その時のベストを選んできた

――それはまたすごくさっぱりとした。

 相当さっぱりしていますね。だってそれって、どうあがいても変えられないことじゃないですか。考えても無駄かな、と思ってしまうんですよね。小さい時からそうで、別になんかその都度その都度良いと思った道を選んだ結果が現在につながっているから、多分あまり悩まないんですよ。やっぱり一旦決めてしまった道はもう悩まないというのは、後には良い効果があるのかなと思いますね。そういう風に思いませんか? あなた方だって今までいくつかそうやって考えて選んだ道ってあると思うんです。

――確かに。でも僕たちも、これからどうするかものすごく悩んでいます。

 そうですよね。こういう企画を作ってもらっておいて言うのもなんですけれど、大人って大体適当なこと言うんで(笑)。しかも個人の経験に基づいた事しか言わないじゃないですか。それを聞いて、あなた方がどれだけ参考になるかというと、多分あまり参考にならないと思うんですね(笑)。

 言えるとすれば、その時その時でベストといえる道を選んだら、それを突き進んで、悩んだらその時にも同じことを繰り返せば、割とハッピーな人生を歩めるんじゃないかっていうことです。多分、ダメになった時のことを考えるから、悩みが深まっちゃうと思うんです。ひどい言い方になりますが、悩んだってわかるわけなくて、やってみなきゃわからないようなことってまあまああると思うんです。悩むことはいいんですよ。でも、1回選んでしまったら突き進むのが大事です。

――でも実際にそのように割り切って生きていくには、様々な困難があると思います。砂川さんがそのような人生の哲学に至った過程を、幼少時代からお聞きしたいです。

 実は僕、7歳まで父の仕事の都合でアメリカにいたんです。だから、英語しか話せなかったです。7歳で帰ってきたときに、僕と弟が英語でケンカしているのを見て、祖母が泣くみたいな(笑)。それで7歳の時に帰国して、福岡で相当いじられたんですよ。それでも急速に博多弁をマスターして、楽しい小学校生活を送ったんですけど。

 ちょうど5年生の終わり頃に、これまた父の仕事の関係で、福岡市内で引っ越しをしたんです。それで引っ越した先が福岡市の西区の端だったんですけれど、それが田舎で。そこの公立の中学校は男はみんな丸刈りだったんです。それを聞いて、「絶対にあの学校行きたくない」って言い出したらしくて、うちの家から通える公立中学はそこしかなく。そこで丸刈りではなかった久留米大附設(福岡県久留米市内の中高一貫校)を母に紹介されました。

――丸刈りが嫌だったという理由で……。

 そうなんですよ。それが今この髪型ですからね(笑)。でも当時の自分にとっては大事なことで。なので一生懸命勉強して、久留米附設に入ったというわけです。

――では勉強は強制されていたわけではないと?

 一度もないですね。両親から勉強を強制された経験は一切なくて。だから、うちには兄弟が何人かいるんですけれど、皆結構適当ですね(笑)。

砂川玄志郎さん砂川玄志郎さん

プログラミングにはまり、政治家を志す

――入学してからは、どのような学生時代を?

 プログラミングでしたね。アメリカにいた5歳のころに、コンピューターでプログラムを書くということを知ってしまったんです。日本では家庭用のパソコンはなかった時代ですが、アメリカではちょうど普及してきた時代で。それで僕の父は医者で研究をしていたので、その関係で家にもパソコンがあったんです。僕はそれで適当に入力して遊んでました。英語が読めたので、プログラミングが打てたんです。打ったら丸とか線が出てきて、楽しいってなって。僕があまりにも父のパソコンをいじるから壊しそうになって(笑)。そしたらある日サンタさんが子ども用のパソコンを持ってきてくれました。

 だから、小学校の頃もプログラミングが大好きだったし、中学に入ってからもプログラミングばかりやっていました。ゲームを作りたかったんです。それは今でも思ってて。だって今すごくいい時代なんですよ。ケータイでもゲーム機でも、あらゆるゲームを作る環境が最高に整っているというか。結構お金も稼ぎやすくなっていますし、夢のある世界になっている。。理研を辞めたらゲーム作りたいと思っています(笑)。

――転職の可能性も。

 全然あります。今も疲れたらプログラム書くくらい好きなんですよ。その出会いがあったのは、自分にとってすごく大きなことでしたね。

――大学は京都大学医学部に進学されたということですよね。

 当時はプログラミングか子ども関係の仕事をしたいと思っていたので、まずは医学部を目指して、どうしてもいやだったら工学部の情報工学科を目指せばいいじゃないかと父に言われて、素直な砂川少年はそれに従い(笑)、医学部を受けることを決めました。

――当時から子どもが好きだったんですね。

 子ども関係の仕事をしたいと思ったのは、いくつか要素があると思うんですけれど、僕は5人兄弟の一番上なんですよ。5人は当時でも珍しかったと思うんですけど、子どもがわんさかいる環境で育って、良く面倒見てました。なので、自分が将来大人になったら子どもの役に立つ仕事がしたいと自然に思うようになって。孤児院を運営したり、あるいは官僚や政治家になって児童福祉や虐待に取り組んだりそういうことをしたいと思っていました。あとは父も医者だったし、叔父と祖父が小児科医でした。それもあって自然と小児科を志しましたね。

 それで、ちょっとおかしいんだけれど、大学をやめて、政治家とか国を動かす方向にいかないと子どもって助けられないんだって思った時期があったんですね。それはもう、真面目に思ってました。その時は母が、頼むから大学だけは出てくれみたいな感じになって、「大学出たら何してもいいから」って言ってきて。そこで説得されて、5年生6年生まで行きました。5年生6年生まで行くと、もう病院研修が始まるんですね。そうなると、大学生だけれどある意味病院の一員みたいな感じで組み込まれるんです。そのままお医者さんになって何年か経つという感じですね。

――そして小児科医時代に、現実を突きつけられた……。

 最初にいた病院は大阪赤十字病院っていう大きな病院なんですけど、3年間たくさん患者さんを診て、もっと診療経験を積みたいと思い移ったのが世田谷の国立成育医療センターで、日本一大きい小児病院です。そこの集中治療室や救急部で働いていたんですけれど、重症のお子さんが集まる病院でした。子どもの死は精神的にこたえました。冬眠の話は、そういう思いから出てきました。研究者への転身は、さっきも話したように、迷いはほとんどありませんでした。

 今はとにかく研究者が少ないし、この業界への投資も少ない。そこを自分が現役のうちに、本当に人工冬眠の研究に携わる人を増やしたいと思っています。研究資金を集める人とか、人工冬眠が実現した後にそれを維持する装置を作る人とか、関連する分野にも人材は必要なので、たくさんの人を巻き込んでいきたいと思います。それが自分の中での今後5年、10年のプランです。

進路に迷ったら「一番よいのは、悩まないこと」

――最後に、進路に迷っている若者に一言いただきたいです。

 40数年生きてきて思うのが、一応今の科学技術では人生は一度きりということになっているので、後悔がないように生きるのが大事ということですね。後悔がないということをクリアするために多分一番いいのは、悩まないことなんですよ(笑)。難しいですか?

――難しいです(笑)。

 未来はもちろん、過去こうしておけばよかったという後悔も含めて、悩まないことです。特に過去のことを考えずに済むためには、その瞬間瞬間、自分が最高だと思える道を進んでいくことです。あとは大人の言うことは聞かない。私の言うことも含めて(笑)。

 考えすぎず、悩んだらやってみる。やってみて、1年もやってダメと思ったらまた戻ってやり直せばいいじゃないですか。時間はいくらでもあります。僕らの祖父の世代って50、60歳まで生きられたらいい時代だった。もっと前なんてもっと短かったわけじゃない。だからあなた方の世代なんて、その人たちの3倍くらいの時間を生きるわけだよね。そう考えたら、色々と試してみたほうが得じゃない? 悩むよりもやってみたほうがよいのかなって、思いますね。

【後記】今回、砂川さんに話を伺って感じたのは、意思を実現させようとし続けることの重要性だ。小児科医、研究者と立場は変わっても、どちらも「子供を救いたい」という、一貫した、諦めない意思から生まれたものだったように感じた。私たちは、「キャリア」「進路」などと名前を付けられると、まるでそれが人生の目的であるかのように勘違いしてしまう。特に、私たちのような若い世代では、その傾向は顕著であると思う。大事なのは、実現させたいこと――それは「夢」といった大それたことでなくてもいいが――を持ち続けることなのだと思う。進路とは、進む路(みち)、あるいは過去に進んできた路なのだ。道程であって目的ではない。「絶対に子供を救いたい」という一心で生きてきた砂川さんの人生から私たちが得るべき教訓は、そこにあると思った。(富塚清芽)

インタビュアーの富塚清芽(右)と安藤聡インタビュアーの富塚清芽(右)と安藤聡