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高すぎる学校制服の負担解消策は「ユニクロ制服」か、それとも私服か

経済合理性と子どもの個性の両立を図る「自由な制服」の提案

西郷南海子 教育学者

独占状態の制服産業、負担軽減の妙手は

 全国で桜吹雪が舞い、入学式のシーズンも終わりつつある。中学校、高校に入学する子どものいる家庭は、先立って制服採寸と注文、購入を済ませたことだろう。またそこで、制服の値段の高さにも驚いたはずだ。制服には選択肢がない。「◯◯中学ならこれ」と初めから決まっており、安い制服というオプションはないのだ。消費者に一切の権利のない、独占産業の世界である。こうした不条理に対し、SNS上では「制服、ユニクロでいいじゃないか」という声も数年前から上がっている。

筆者の息子の私立高校制服が代金引換で届いた。夏服はまた夏に届く筆者の息子が通う私立高校の制服が代金引換で届いた。夏服はまた夏に届く

 そしてすでに、「ユニクロ制服」が実現している学校もある。さいたま市立大宮北高等学校では、ユニクロの商品の一部を制服用と指定し、その中から自由に選択、着用可能としている。たとえば、スラックスの色も、黒だけでなくグレーなど複数の色から選ぶことができ、もちろん男女問わず選択できる。そして、これまでの制服よりも確かに安い。

 しかし、ここで問題なのが、「ユニクロ制服」では公教育の場が巨大営利企業の宣伝の場になってしまうという点である。たしかに地元の洋装品店で注文し、受け取りに行く制服はどこで作られたのかもわからず、「もっと安くできないのか」という不満を覚える。一方で、「ユニクロ制服」と大々的に宣伝されるものであれば、それはそれで問題を内包している。環境問題や労働問題の観点からもである。

 ユニクロが使用している原材料が、どこで採れ、どのように加工されているのかは、あまり知られていない。「MADE IN CHINA」というタグ印字の、その向こうにどのような光景が広がっているのか、想像力が必要である。中国では綿生産の大きな割合を新疆ウイグル自治区が占めており、ウイグルでの強制労働とユニクロのつながりについては、以前から透明化を求める声が上がっていた。ウイグルにおける人権侵害は、もはや「21世紀のアウシュヴィッツ」とも呼べるレベルであることが人権団体から指摘されている。

 アメリカやフランスでは、これらの点からユニクロに対して強い反発が起こっている。ユニクロ側の回答は、筆者が見る限り、歯切れの良いものではなく、さらなる懸念を呼ぶ内容である。これらの事柄から、筆者は「ユニクロ制服」も現時点では推奨できるものではないと申し添えたい。

高校の制服導入例を紹介するユニクロのサイト高校の制服導入例を紹介するユニクロのサイト

 

では私服にすればよいのか

 このように制服というシステムは、規模の大小はあれど、本質的に独占に基づいている。では、子どもに何を着るのかを任せる私服にすれば問題は解決するのだろうか。まず、経済的な観点から私服について考えていきたい。

 中高生の被服費(衣料品にかかる出費)の明確なデータはないが、株式会社日本マーケティングリサーチ機構が2021年に行った調査では、「10~20代の52.34%が、1年間の洋服代は『5万円以下』と回答」している。これは、中高生を育てる筆者から見ても「ああ、それくらいかも」と感じる数字である。

 普段制服を着ている子どもは、修学旅行など私服のイベントがあれば、その前に服を買い込む。そのときに流行りのカラー、サイズのものをである。前述のユニクロがもはや激安路線ではないので、筆者の家庭の場合、それより一段階価格帯を落としたGUに行くことが多い。ただし、より安いということは、ファストファッションの場合、より反倫理的であることと直結してしまう。

 現在、GUよりもさらに安いのが、中国発の激安ブランドSHEIN(シーイン)だ。中国からの発送も迅速で、梱包も丁寧だが、もちろんこれはファストファッション中のファストファッションなので、ユニクロ以上に激しい人権問題を抱えているのは容易に想像できる。分かっていても買うのか、あるいは、まだ見ぬ他者の人権を自分の財布より優先させるのか。葛藤せざるをえない。しかも、不買運動の難しいところは、もし不買が広がって、その企業の売り上げが落ちたとしても、その労働者は減給か解雇されるだけであり、その労働者は救われないのである。

 それでは、「エコ」な選択肢を見てみよう。地球規模での環境保全を訴えているパタゴニアは、長期間使える商品で有名だが、その価格帯はファストファッションよりも「ゼロ」が一つ多い。本家本元で買うのではなく、中古フリマサイトで値段を見てみても、そう簡単に子どもに買ってやれる価格ではない。パーカーでも1万円を超えるのが相場となっている。もし、「エシカル」(倫理的)な私服登校をしようと思うと、新品でトータル10万円超えになってしまうだろう。

フリマサイトの画面の一部。中古パーカーでも1万円を超えているフリマサイトの画面の一部。中古パーカーでも1万円を超えている

 私服でいいじゃないか、と主張する人には「ではどのような私服を着るのですか?」と返さざるをえない。ファストファッションと(エコ)ハイブランドの中間項がもはや消滅したと思える今日、どのような私服が通学に最適なのだろうか。もちろんそれは各自が考えることであり、多様な選択肢の中から最善と考えられるものを選び取ることで、自立した人間に近づくというのは一理ある。ただし、昨今の物価高や家庭の疲弊の中で「最善」を考える余裕もないというのが、現状ではないだろうか。

 また私服だと、毎日服を変えなければならない。もし同じ服を着続けていれば、家庭に何か事情があるのかと推測されてしまうだろう。厚労省が発表した「子ども虐待対応の手引き」には次のように記されている。

 ネグレクトの場合は、その捉え方や範囲に個人差や時代的、社会的な影響が大きい。(中略)ネグレクトには死亡してしまうような事例から、衣服の着替えの不十分なまま登校してくるような事例まであり、その範囲は広い。(厚生労働省「子ども虐待対応の手引き」p. 288)

 つまり、衣服というのはネグレクトのわかりやすいサインとして捉えられてきており、それだからこそ、それに該当しないような努力が家庭に求められるという、ある種の転倒が起きている。

 制服というのは長らく、家庭ごとの経済格差を見えなくする役割を果たしてきた。着てさえいればよいのである。どんな豪邸に住んでいようが、木造アパートに住んでいようが、着ているものは同じである。筆者は、高価な制服には反対の立場であるし、この春の出費には辟易としたが、それと同時に制服が本来もっていた「ラディカル」な役割にも気がついたのである。経済格差は可能な限り縮小すべきだが、それは教育機関に今すぐできる仕事ではない。教育という場での(表面的な)平等を保持するために、当面は制服を用いるという考え方が引き継がれてきたのであろう。

 もちろん義務教育は無償であり、その責任は国および地方公共団体が負う。中学校、さらには(現在は義務教育ではないものの)高校の制服も、無償化が必須である。その点では教科書が無償なのと何も変わらない。制服の値段がこのように高いまま維持されてきた背景には、制服代という一度の出費は、まさに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」であり、当事者の社会運動として長期的に続いてこなかったことがあると思われる。

 組み合わせ可能な「自由な制服」

 本稿では、現状の学校制服にも、私服登校にも、それぞれ経済的な観点から問題点があることを指摘した。また学校制服には「平等」の理念が込められている一方で、子どもを画一的に扱う暴力性も秘めていることも触れなければならない。そもそも、全員同じものを着るということが、軍隊的あるいは工場的な管理の視点である。着ているものが同じであれば、それ以外の違い(肌の色や、髪型、髪の毛の質)も際立ってくる。このように管理の対象は、服装から子どもたちの身体へと及んでくる。

 そうした場に子どもを送り出すことに、筆者は底知れない恐怖を抱いている。多くの高校で禁止されている「ツーブロック」という髪型があるが、その禁止の根拠は不明である。この髪型をすることで子どもの登校モチベーションが上がるのならよいのではないか? なりたい自分を模索することこそ、教育なのではないか?

 こうした立場から、筆者は「自由な制服」を提唱する。基本パーツ(スラックスまたはスカート)は、似通ったものを衣料品店で安く買えるようにし、その他(ポロシャツ、ワイシャツ、パーカー、ジャケットなど)は自由に加えるようにする。これは、イギリスの小中学校がこうした方法を採用していることに加え、筆者の母校である湘南高校(神奈川県立)でも同じようなシステムであったことから考案した。

 湘南高校には校則はなく、中学の制服を着ていくことが可能だった。そこで筆者は、スカートは中学のものをそのまま利用し、ブレザーのみ購入した。また百貨店の対応も「いいかげん」であり、行った百貨店によっても異なる制服が出されていることが入学後分かった(2003年入学)。要するに「制服っぽいもの」を着ていればよかったのである。

 基本パーツを安く買えれば、それが制服の土台となり、さらにそれをどうアレンジするかは自由となると、自己表現の幅が生まれる。これが「自由な制服」のスタイルである。これなら経済的な合理性と、子どもの個性の両立が可能になるのではないか。

 学校現場における矛盾した言説に筆者は耐えられない。「服装の乱れは心の乱れ」などと言う一方で「イノベーション」を散々謳う。そこから一体どんなイノベーションが生まれるというのか。子どもたちを画一的に扱うことができれば、何らかの優越心が教師には芽生えるかもしれない。しかしそれは、果たして教育的な営みなのだろうか?

 湘南高校では教師が「ここには校則がないからいい。校門でスカートの長さチェックなんてやらないで済む。授業ができる」と言っていたことを思い出す。このように、教師と生徒が本音を言い合える関係であることに、わたしは誇りをもっていた。先生たちは、教科のプロとしてよりよい授業がしたいのだと。それに応えたいという気持ちも生まれた。つまり、相互信頼こそがあらゆる教育活動の基盤となるのである。

 現在、教師と子どもの不信感を煽るためだけに存在しているような校則の存在が次々と明らかになっている。その根底には制服を起点とする、生徒管理の発想がある。しかし、子どもたちは均一の商品ではないのである。野菜だと形が変わったものは流通からはじかれてしまう。しかし、子どもは野菜ではない。当たり前のことである。そして制服は、商品パッケージではなく、子どもの心身を守る衣服である。

 こうしたごくごく真っ当な立場から、制服システムの改善を訴えていきたい。子どもたちが「当事者」である期間は、中学3年、高校3年とそれぞれ短い。その中で、自分の心身を何で包むのかという課題を自分たちで楽しみながら考え、解決する。これこそがイノベーションの第一歩ではないか。