来春、北陸新幹線の終点に。軽井沢と直結する歴史ある港町ならではの試みとは
2023年04月22日
長野県軽井沢。江戸時代、中山道の宿場町だったこの町は、明治以降、政治や経済、文化人の大物が休暇を過ごしたり、重要な決定を下したりする“特別な場所”になり、戦後は大衆消費文化の発展を背景に庶民の憧れのリゾートとして、多くの観光客が訪れました。時代とともに相貌を変えてきたこの町は、日本の歴史を映す「鏡」でもあります。
「軽井沢の視点~大軽井沢経済圏という挑戦」第8回のテーマは、軽井沢と包括連携協定を昨春、結んだ福井県にある、敦賀市です。敦賀では今、公設民営という珍しいかたちの書店「ちえなみき」が全国から注目を集めています。また、日本の外交官・杉原千畝氏による「命のビザ」を携えたユダヤ難民が1940年から1941年にかけて上陸した敦賀港に佇む資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」は、ロシアのウクライナ侵攻後、「今ここにある課題」として難民問題を考える場になっています。
新たな人流の拠点になった「ちえなみき」、古くから外国人を引き寄せる敦賀ならではの「ムゼウム」。二つの施設を通して、軽井沢と敦賀の意外な共通点と相違点、そこから浮かび上がる地方創生のあり方について、「ちえなみき」の運営にかかわる鈴木康友さんと野村 育弘さん、ムゼウム館長である西川明徳さん、敦賀市の部長である小川明さんにお話をお聞きしました。
(構成 論座編集部・吉田貴文)
連載「軽井沢の視点~大軽井沢経済圏という挑戦」のこれまでの記事は「こちら」からお読みいただけます。
鈴木康友(すずき・やすとも)丸善雄松堂Research&Innovation本部長
1973 年生まれ。法政大学卒。丸善(現丸善雄松堂)入社。事業企画推進本部コミュニティ事業開発部長などを歴任し21 年から現職
野村 育弘(のむら・やすひろ)編集工学研究所取締役CFO
1965年生まれ。北海道大学卒。丸善(現丸善雄松堂)入社。編集工学研究所代表取締役社長などを歴任し22年から現職
西川明徳(にしかわ・あきのり)人道の港敦賀ムゼウム館長
1970年生まれ。大阪外国語大学(現大阪大学)卒業。敦賀市役所に入り、2016年から敦賀市人道の港発信室長として今に至る
小川明 (おがわ・あきら)敦賀市都市整備部長
1967年生まれ。岩手大学卒。敦賀市役所に入り、都市整備部駅周辺整備課長、新幹線整備課長などを歴任し2019年から現職
芳野まい 連載「軽井沢の視点~大軽井沢経済圏という挑戦」では、軽井沢町と、軽井沢町と関連のある地域を含めた「大軽井沢経済圏」について、様々な角度からお話をお聞きしています。8回目の今回は福井県敦賀市を取り上げます。なぜ、軽井沢から遠く離れた敦賀なのか?それを説明する前にまず、敦賀がどういう場所か、概観したいと思います。
敦賀は、福井県のほぼ中央に位置し、北は敦賀湾から日本海を望み、他の三方は山々に囲まれた典型的な港町です。天然の良港として知られ、古くは近江商人が北海道の文物を京都・大阪に運ぶための通過港、江戸時代中期から明治にかけては北前船の寄港地として、また、大陸から日本にやって来る船の玄関口として、大いににぎわいました。今も外国のコンテナ船やフェリーが就航しています。
人口は6万4000人弱。来年春に北陸新幹線が福井県まで延伸しますが、その終点になります。開通後は東京まで乗り換えなしで行き来できるようになり、知名度の向上、交流人口や移住者の増加、観光業の興隆なども予想されます。在来線の駅を見下ろすような新幹線駅がいまちょうどできあがりつつありますが、壮観ですね。
小川明 ええ。大阪や名古屋方面から特急が来る在来線との乗り換え口になる2階コンコースの改札は19通路もあり、全国の整備新幹線駅で最多。新幹線ホームからは敦賀湾の絶景も望めます。
芳野 そんな敦賀市をどうして取り上げるのか。大きく二つの理由があります。ひとつは、敦賀市が今、力を入れて取り組む二つの施設、JR敦賀駅にできた書店「ちえなみき」と、敦賀港にある観光施設「ムゼウム」に着目したからです。
ふたつめの理由は、北陸新幹線の延伸で軽井沢と敦賀が直接つながることです。連載の第2回「すべては越前がにから始まった!福井県・軽井沢町連携が目指すもの~地方創生の新しい形」で取り上げたように、敦賀のある福井県と軽井沢町は昨年春、連携協定を結び、今後、幅広い協力に期待が高まっています。そこで、たとえば敦賀市と軽井沢ではどんな関係性がつくれるのか、考えてみたいと思いました。
小川 新幹線の開業で敦賀から2時間半ほどで軽井沢に行けるようになるのは大きいです。海と歴史のまち・敦賀と、山間のお洒落なまち・軽井沢の間でこれを機に“化学反応”が起き、敦賀の新たな発展につながればと思います。今回はそのあたりの話もできれば……。
芳野 まず「ちえなみき」から始めましょう。私たちは今、まさにその一角にいます。いろんな種類のたくさんの本がとても面白いかたちで並べられて、子どもが遊ぶスペースがあったり、こだわりのお茶を飲める場所があったり。いまは多くの書店や図書館でも同様の親しみやすさの工夫がなされていますが、それらとは明らかに一線を画する特別なエネルギーがある。「公の書店がどうあるべきか」についての深い考察と、ぐんと踏み込んだコミットメントを感じます。
★「ちえなみき」の詳細は「こちら」から
小川 「ちえなみき」はJR敦賀駅の西口に昨年9月1日にオープンした全国でも珍しい公設民営の書店です。市が整備し、運営を丸善雄松堂株式会社(本社、東京都港区)と株式会社編集工学研究所(本社、東京都世田谷区)に委託。3万冊を超える本が並ぶ書棚空間と、生活に役立つ情報や体験ができる知育・啓発施設機能をあわせ持ちます。本が持つ集客力を使い、コミュニティの拠点、高校生など若者たちの居場所といった、多様な人たちが行き交う場所を目指しています。
芳野 普通であれば、市が整備するのは図書館ですよね。いったいどんなスキームで、営利目的の書店を設置できたのでしょうか?
小川 そこは知恵を絞りました。新幹線開業に伴って進めた駅西口の土地区画整理でできた市有地に事業用定期借地権を設定、有償で民間に貸し付け、建物を建ててもらったうえで、その一部を借りるかたちで土地代をベースにテナント料を払うというスキームです。
「ちえなみき」はその中にある公共施設で、運営は指定管理制度を活用し民間企業にお願いしました。運営にかかる費用は不動産開発で生まれた税収をあてるので、市民の負担は少なくてすみます。
芳野 指定管理者となる民間企業はコンペで選んだと聞いています。丸善雄松堂と編集工学研究所は、どのような理由で選ばれたのでしょうか?
小川 コンペには五つの企業グループが参加し、大激戦の末に丸善グループを優先交渉権者に決めましたが、最大の決め手は総合力でした。設計、建築、選書、地域コミュニティ活動のすべてに、社を挙げて取り組み、敦賀の街を変えていこうという意思が伝わってきたのが大きかった。
芳野 丸善グループのそうした姿勢はどこから生まれたのでしょうか? 丸善雄松堂の鈴木さん、いかがですか。
鈴木康友 書店業界が低迷するなか、これからどのように本の商いを続けるか、丸善グループも模索し続けています。2013年にCCCのプロデュースでリニューアルした佐賀県武雄市立図書館を契機に、幾つかの地方で図書館を活用したコミュニティづくりの機運が高まっていて、そうした流れに関わりたいと考えていたところ、敦賀市の今回の試みを知り、全社をあげて挑戦することになりました。個人的に北陸に地縁があり、力が入ったのも確かです。
芳野 編集工学研究所はどのように関わられていますか?
野村育弘 編集工学研究所は丸善雄松堂の子会社で、選書や売り場のデザインといった部分を担当しています。「ちえなみき」では、本の可能性をとことん追求したい。本を介して人と人をどうつなげるか。膨大な情報のインデックスでもある本を、いかに地域振興につなげていくか、日々考えています。
芳野 市が書店という営利事業にかかわることには、賛否両論もあったかと思いますが。
小川 市として、本が人を呼ぶ力を使って市民の居場所をつくる方針は決まっていましたが、本を貸すサービスにするか、本を買うサービスにするか、最後まで悩みました。前者は図書館ですが、後者は全国でも例が少なく、リスクを伴う挑戦でした。最後は市長に相談して決めました。
芳野 反対はありました?
小川 ありました。しかし、「民間のノウハウを生かし、図書館とは異なる知的情報インフラとして選りすぐりの本を市民に届ける」と説明し、市民や議会の方々にご理解をいただきました。民業圧迫になるベストセラーは置かず、一般書店や図書館にはない書籍も並べるというかたちで、「知への投資」にふさわしい本を選んでもらっています。
芳野 「知への投資」、敦賀市の覚悟を感じる強いことばです。その「お題」のもと、野村さんはどのように選書されたのでしょうか?
野村 本には、未知の世界と出会うツールという面があります。「ちえなみき」ではその点にこだわりました。小説、専門書、絵本、古書や洋書も含め、幅広いジャンルのデザインもキャラクターも様々な書籍をあちこちから集め、迷路のように入り組んだ店内の本棚に並べることで、未知との遭遇を実感できる世界を展開しました。
芳野 確かに1階は迷路のようで、自分がどこにいるか、分からなくなります。
野村 1階のコンセプトは「世界知」です。「文化・生活」「歴史・社会」「生命・科学」の三つのステージのもと、既存の図書館や書店のような分類ではなく、「アート」や「戦争の記憶」、「生きものの不思議」などのテーマに沿って構成し、絵本から専門書まで、一見ランダムに置いています。
嬉しいのは、店の奥にお客さんがいるのを見る時ですね。普通の本屋では、奥にはあまりお客さんはいません。「ちえなみき」では、次の角を曲がると何があるんだろうと好奇心にかられ、お客さんが知らぬうちに店の奥に入り込むようにしたかった。
芳野 1階のレジ横に「共読知」というコーナーがあります。これはなんでしょう?
野村 敦賀のことが分かるコーナーです。「ヒト・モノ・コトが本でつながり、敦賀の未来が動き出す」をテーマに、おぼろ昆布などの地元の特産品や、市内の本好き「本人(ほんびと)」が選んだ5冊の本を紹介しています。
芳野 引き出しに隠すように置かれた本や、高い棚にあって手が届かない本もあります。かえって気になる。私も小さな引き出しが気になって開けてみたら、ものすごく小さな本が行儀良くたくさん並んでいました。なんだかうれしくなって、ずいぶん買ってしまいました。
野村 偶然、本と出会うという仕掛けです。2階は1階とは趣を変え、仕事や趣味など身近な暮らしにかかわるような本を集めた「日常知」コーナー、子どもの本や仕掛け本、ビッグブックなどの「絵本ワンダーランド」、ワークショップなどの催しに使えるスペースをつくりました。知育玩具を並べたり、読書は苦手かも……、という人にこそ読んでみて欲しい「はじめの一歩」という書棚も設けています。
芳野 オープンからこれまで、お客さんの反応はいかがでしょうか?
鈴木 お店の日報を見ると、おおむね反応はいいですね。公設民営書店というスタイルが書店文化を守る、という記事が新聞に書かれた時、電話で「なぜ税金を使うのか」と訊かれたことが一度だけありましたが、ネガティブな反応はそれ以外はほとんどない。特徴的なのは、スタッフに話しかけてくる人が多いということです。
芳野 どんなことを話すのでしょう?
鈴木 自分が何をしているか、どんな興味を持っているか、ですかね。とにかく、お店におしゃべりに来る人が多いという印象は強いです。
野村 他の書店と比べても、ここは圧倒的に2人連れ、3人連れでお越しいただくお客さんが多い。たとえば、親子で来られて、「この本、昔、読んだよ」などとしゃべっている。会話が生まれる書店というのが、最大の特徴だと思います。
小川 言われてみれば、会話しながら本に接しているのが、図書館との相違点ですね。
野村 敦賀市民のオープンな気質も影響している気がします。別のところだと、もう少し違う店の雰囲気になったかもしれません。
鈴木 確かに、来店する人の雰囲気は明るいですね。予想と違ったのは、ビジネスマンの来店が少なかったことでしょうか。駅に隣接しているので、会社帰りに寄ることを想定し、夜は照明を暗くしてジャズでも流してサロンみたいにしようと思ったんですけど……。いちど家に帰って、飯を食べてから来る感じかもしれないです。
芳野 敦賀市民のオープンな気質というお話がありましたが、そうなのですか?
小川 外から来る人やものに寛容という気風はあると思います。それが、後で話にでる「人道の港」にもつながっています。
芳野 敦賀市民のそうした気質がどうやって培われたのか。ここから敦賀という場所について考えてみたいと思います。
この連載では前回、小諸を取り上げました(「社会減100人超から社会増100超に~『おしゃれ田舎プロジェクト』で小諸が逆襲」)。小諸は軽井沢から電車で30分弱の町で、かつては街道沿いの商都であり、小諸城があったり島崎藤村も教えた小諸義塾があったり、歴史のある町です。それがこの30年、新幹線駅が隣りの佐久市にできたのをきっかけに、忘れられた町という風になって、寂れてしまっていたんです。
でも、結果的にそれがよかった。開発されなかったので、昭和レトロなスナックや古民家が残っている。それをいま、都会的なセンスの人たちが買ったり借りたりして、素敵なお店が次々とできています。地価も物価もそれほど高くないので移住者も増えて、町が活気を取り戻しつつあります。
小諸の最大のポテンシャルは歴史があるということ。それと同じポテンシャルを私は、敦賀にも感じます。気比神宮は「古事記」「日本書紀」にも記されている歴史のある社。江戸時代には松尾芭蕉が訪れて俳句を詠んでいる。金ケ崎城は織田信長軍の撤退戦で知られる戦国時代の合戦の舞台でした。港には、江戸時代中頃から北前船が寄港し、明治以降は大陸から多くの船が来港しました。さらにその流れから、ポーランド孤児やユダヤ難民がこの地に訪れて、「人道の港」の歴史が刻まれました。
こうした歴史は、今からつくろうと思ってつくれるものでありません。だから、ほんとうに価値がある。価値が活力に変換されるのを待っている、という感じがします。
鈴木 敦賀の歴史を振り返ると、江戸時代においても賑わいの浮き沈みがあるんです。たとえば、北前船の西廻り航路ができるまでは、いったん敦賀で荷をおろし、陸路で琵琶湖まで運ぶルートが主だったため、港町敦賀は、北国の都とも呼ばれるほど賑わいましたが、直接船で大阪へ物資が運ばれるようになり、賑わいが翳(かげ)りました。
また、福井県は嶺南・嶺北という地理的・文化的な分断があるのですが、敦賀はその結節点。そのためか、独立した文化といったものをガンガンと打ち出すわけではないですが、ほどよい独立性をもつ独特な空気があります。
私も敦賀には歴史的、地政学的なポテンシャルをずっと感じています。たとえば、大阪が天下の台所として栄える一方で、京都の地位が少しずつ翳っていた頃、京都のお金持ちが敦賀に家をつくったということを聞いたことがあります。憧れというか、注目される場所だったのは間違いない。商業、政治、文化的な要素が渾然(こんぜん)一体となったポテンシャルは相当あると思っています。ただ、うまく言語化できていない。
野村 初めて敦賀に来た時にびっくりしたのは、駅からずっと続くアーケードでした。歩道が広く屋根があって雨でも雪でも歩きやすい。このアーケードに象徴されるように、政治でも文化でも、敦賀は「起点」でも「終点」でもない。常にその間をつなぐ「道」だった。そこに敦賀の個性があるというのが私の印象です。
芳野 「道」というのは面白いですね。文化ってストリート(道)から生まれることも多いわけだし……。
野村 「ちえなみき」にも「道」につながる側面があるのかもしれません。いわゆる、「サードプレース」的な場所として。
芳野 「サードプレース」とは、自宅でも職場でもない、居心地のいい「第三の場所」ということですね。確かに、自宅と職場の間の「道」ともいえますね。
野村 はい。モータリゼーションの進展で、もともとは一体だった自宅、職場、教会といったコミュニティがバラバラになり、そこで生まれるストレスを解消するために必要になったのが「サードプレイス」。敦賀のような地方都市って明らかに車社会じゃないですか。そこで、「サードプレイス」として、「ちえなみき」が人を集めている。
鈴木 確かにそうですね。「ちえなみき」には今、知的欲求が高い人、公共政策にかかわる政治家や研究者らが、全国から次々と訪れています。そういう人たちの「道」にもなっているわけですね。敦賀の人たちと外部から来る人たちの流れを、「ちえなみき」でどうつなげていくか。考えたいと思います。
小川 そこは、敦賀にいる我々には、逆に分かりにくいところかもしれません。鈴木さんや野村さんといった外から来た人が言語化したり可視化したりしてくれるとありがたい。それを通じて、「ちえなみき」を育てていきたいですね。
芳野 この連載を通じて軽井沢のことを考えてみて、軽井沢の持つ不可思議な力をあらためて感じます。歴史的な遺産や景勝地があるわけでない山間の町がなぜ、日本有数の別荘地になったのか。何が人を引き付けるのか。敦賀にも軽井沢同様、人を引き付ける力があると感じます。北陸新幹線が敦賀まで来ると、それはいっそう強まるかもしれません。
「ちえなみき」の話はこのあたりで終えて、座談会の後半は場所を港にある「人道の港 敦賀ムゼウム」に移動し、世界から人が集まる場としての敦賀について考えたいと思います。
芳野 ここ(「敦賀ムゼウム」)の窓からは敦賀港が見えますね。
西川明徳 国際港であるこの港には、1920年代にロシア革命の動乱によってシベリアで家族を失ったポーランド孤児が、1940年代には杉原千畝氏の発給した「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸した日本で唯一の港です。当時、敦賀の町の人たちは彼らを温かく迎えました。
こうした人道の港としての歴史を後世に伝える資料館として、2008(平成20)年3月に「人道の港 敦賀ムゼウム」がオープン。ポーランド孤児上陸100周年、命のビザ発給80周年を迎えた2020(令和2)年11月、展示内容をより充実させ、規模も拡大した新たな「人道の港 敦賀ムゼウム」にリニューアルしたんです。大正から昭和初期に敦賀港にあった敦賀港駅や税関旅具検査所などの4棟の建物を当時の位置に復元し、往時の敦賀港の雰囲気を感じられるようになっています。
★敦賀ムゼウム詳細は「こちら」から
芳野 リニューアルに踏み切ったのはなぜでしょうか?
西川 2008年につくった初代ムゼウムに、関係国の大使や杉原ビザを受給されたご本人の方が来られるなど、訪問者が増えていました。外国のクルーズ客船などが敦賀に入るようになって、外国のお客さん、それから日本のお客さんもたくさん来ていただいてパンク状態になったんです。
ムゼウムは、この敦賀にしかない歴史を皆さんに知っていただくための貴重な施設です。もっと多くの方に満足してもらえるように、新幹線開業を見据えて、以前の建物も復元し、2020年11月3日に新たなスタートを切りました。
芳野 ちょうどコロナ禍に重なっていますね。大変だったのでは?
西川 リニューアルオープンの時はコロナ感染の波が少し収まっていて、多くのお客さまにおいでいただきましたが、その後も何度か感染拡大局面があり、残念ながら今は年間2万数千人にとどまっています。もっともっと多くの方にお越しいただけるように、いろいろ試してみたいと思っています。
芳野 敦賀に上陸したユダヤ難民というと、現在では杉原千畝さんのことはだいぶ知られています。もちろん杉原さんのご功績は計り知れないですが、彼一人でユダヤの人たちを助けられたわけではありません。避難の途中で力を貸した人たちもいますし、りんごをあげたり、お風呂屋さんでお風呂に入れてあげたりした敦賀の人たちもいる。たぶん、どのひとつが欠けてもユダヤ人の物語は成立しない。
西川 はい。ムゼウムはそういうスタンスで展示をしていて、杉原さんファンの方が来られたら物足りなく感じるかもしれません。杉原さんがビザを発行したのは非常に大きなことです。でも、それだけではない。いろんな方が関わっていて、そのなかには敦賀の市民もいた。展示では「バトン」という表現を使っていますが、人道の大切さを皆で共有し、世代を超えてつないでいくというのが、ムゼウムのコンセプトです。
芳野 印象に残った出会いとか出来事はありますか?
西川 そうですね、リニューアルの準備に本格的に取り組み始めるようになった2016年、子供の頃に難民として敦賀に来た方がオーストラリアからいらっしゃいました。初代ムゼウムをご案内した時、ふと背中を向けた。泣いてるのが分かりました。僕たちには想像もできないような苛酷な経験が胸を去来していたのでしょう。「ありがとう」と言われたときは、もらい泣きしてしまいました。
4年前に敦賀に来たイスラエルの方も印象深いです。敦賀で食べたリンゴの味が忘れられないと言うので、サプライズでリンゴを渡したらすごく喜んでくれて、リニューアルオープン時に「リンゴがすごく甘い味がしたのを体で覚えている」というメッセージを寄せてくれました。「体が覚えている」という言葉にじんときました。
鈴木 困っている人がいたら助ける。手を差し伸べる。こうした「利他」の営みは、現代的です。ポーランド孤児やユダヤ難民の話を特殊な時代の特殊なエピソードにせずに、利他の観点から捉え直し、現代の課題としてみんなで考える。敦賀ムゼウムがその場所となり、シンポジウム的なことができれば、敦賀からの新たな発信になるのではないかと思いますね。
西川 それに関連して言えば、ムゼウムでは昨年からUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と共同の事業を始めています。難民問題を過去のものではなく、現代の課題として考える狙いがあります。
具体的には、世界難民の日に施設をライトアップしたり、難民問題を扱った写真展を開催したりしています、2022年11月3日のオープン2周年に合わせて、UNHCRが各国の自治体を対象につくっている「難民を支える自治体ネットワーク」に敦賀市も加盟しました。日本の自治体では八番目です。
ウクライナ侵攻以降、資料館に来られる方の目が変わった気がします。日本にもウクライナから避難民が来て、ムゼウムで展示されている出来事が決して過去のものではないと受け止めるようになっています。世界で起きていることは、昔も今も変わらない。ムゼウムでは今後、そうした点も強調していくつもりです。
芳野 軽井沢にはなぜか人が集まり、人を受け入れる不思議な力がある。それが何か知りたいというのが、この連載を始めた理由のひとつですが、敦賀にも外国人を自然体で受け入れる力がある気がします。
西川 敦賀は、戦前の世界地図に東京、大阪、京都といった大都市と並んでその名が記されているほど、日本への玄関口として著名な場所です。おっしゃるように、自然に人が集まっていた。軽井沢とはタイプが違うかもしれませんが、人が集う場所としては共通ですね。
野村 それがポーランド孤児やユダヤ難民の受け入れにもつながっている。ただ、自分たちにはあまりにも当たり前すぎて、発信するほどのことじゃないよね、と思っているフシがあります。
鈴木 同感です。昔から世界からの玄関口であり、国内航路の通り道であり、人たちが交錯をした場所だった。人をつないできたハブ・敦賀の過去の姿を記録し、これからは我々がすべてをつなぐという形で発信できないか。そうすれば、否応なく人が集まって来ると思うのですが。
野村 敦賀で残念なのは、すべてが流れていって、この場所でいったん止めて発酵させたものがない点ですね。編集工学研究所・所長の松岡正剛は、敦賀でも職人のことを考えないといけない。金沢のように工房みたいなものをつくり、人が「蓄えられていく」ようにしないと成熟しない、とよく言っていました。
人を受け入れたうえで、そこから敦賀文化をつくるということを意識的にしたほうがいいでしょうね。行政も、こういう文化のまちをつくりたい。例えばアーティストのまちにしたいとか、難民問題を考えるまちにしたいとか、メリハリはつけるべきでしょう。
芳野 軽井沢もかつては通り過ぎて行く場所でした。明治以降、まず外国人が別荘を建て、日本の政財界がそれに続き、人が“留まる”ようになって、軽井沢文化が形成されました。
連載でも幾度か触れましたが、明治になってスコットランドの名家でカナダ生まれのアレクサンダー・クロフトショーという人が「素敵!」と言って住みついたのが、別荘地としてひらけていくきっかけと言われています。でもじつは客観的に素敵だったわけではなく、荒れた土地が故郷に似ていて懐かしかったらしい。
その点、敦賀は山と海に恵まれた豊かな場所です。昔から多くの人が住み、オープンな地域性を育んできた。裏を返せば、恵まれ過ぎているがために、自分たちのセールスポイントを無理につくる必要がなく、蓄積しなくてもすんでしまったのかもしれません。「ちえなみき」を契機に敦賀に関わるようになったお二人からみて、敦賀に人を“留める”にはどうしたよいと思われますか?
野村 僕らは「ちえなみき」を核にして人が滞留するコミュニティをつくりたいと思っているので、現状に挑戦しなくてはいけないと考えています。どうやって人を呼び込むか。アーティストでもクリエイターでもいいですが、誰を旗印にするか、早急に決めたいと考えています。
芳野 ちょっと話が逸れますが、フランスに「アペリティフ」という習慣があります。。晩ご飯を食べる前の1−2時間ほど、アルコールなど飲み物と一緒におしゃべりを楽しむ時間です。
フランスでは、日本のように晩ごはんを職場の人と行く習慣はありませんし、そもそも夜に人を招くとなるとおおごとになる。なので、たとえば職場の集まりや、カジュアルな友人同士の集まりは、アペリティフですませることが多いです。もちろん日本でも昔から井戸端会議とか茶飲み場でのおしゃべりがありましたが、この「晩御飯前の1、2時間」という設定が、さまざまなライフスタイル、ライフステージの人を受け入れやすく、いまの社会にぴったり合うと感じています。
たとえば、アペリティフという少しくだけた設定で、人道という真面目なテーマを扱うことも考えられるのでは? 従来と異なる人たちが参加して、新しい発想がでてくるかもしれません。夕方にさくっと集まり、人道について、本とワインを手に語り合う「ちえなみきアペリティフ」「ムゼウムアペリティフ」。1時間おしゃべりしたら、さくっと解散。
小川 北陸新幹線敦賀駅が開業すれば、新たな人流ができる可能性がある。駅前にはキャラの立った書店がある。少し離れたところには、歴史のある人道の港がある。この二つをうまくつなぐサロン文化的なものが生まれればおもしろいかもしれませんね。
鈴木 アペリティフというか、小腹が空いただけで立ち寄ってもいいと思うんです。その際に、その場の話題に関連する本がそこにあり、手にとれたりすれば楽しいのではないかと。
多様な価値観を認めようとよく言います。確かにそうなのですが、多様な価値観って、時に分断につながります。自分の価値を主張しあうのではなく、いろいろなテーマについて、緩く話し合う、いや、別に話し合わなくてもいい。ただ、おしゃべりをするぐらいの場ができれば、逆に可能性を感じますね。
芳野 たとえば軽井沢の別荘族は家でバーベキューなどして人を呼び、緩い会話を楽しみながら関係を深め、それが仕事や新しい企画につながったりする。敦賀は敦賀でいちばん合った集まり方を考えていければいいと思います。
鈴木 敦賀の長いアーケードの途中に、軽く食事ができたり、歌や楽器を演奏できたり、本が読めたりするスポットをつくる。そのスポットは日や時間によって移動する。そうすると、場所と時間によって、集まる人たちが変わり、さまざまなコミュニケーションの場ができるかもしれない。
小川 われわれ行政はハード面の整備は得意なので、まずはストリートに滞留する場所をつくるところに先行投資し、その後、民間企業やよそから移り住んできた人で、中身をつくってもらえれば。そういう回転が、新幹線の敦賀延伸に伴い生まれればいいと思いますね。
鈴木 敦賀を「本とおしゃべりとお節介のまち」にするというのはどうですか?
芳野 本は「ちえなみき」ですね。おしゃべりはコミュニティ。「お節介」は?
鈴木 人道というと固いのでお節介。旅人にも親切ということでお節介。
野村 なるほど。人道ってお節介ですからね。
芳野 お節介な人がいっぱいいたから、できたんですね。
鈴木 アーケードの途中にしつらえられたスポットにフラッと来てみたらそこにお節介な人がいて、おしゃべりをしたり、本を紹介してもらえたり、そんな機会が日常的にあれば、敦賀っていいなと思えてもらえるんじゃないですか。
芳野 今日は北陸新幹線の福井延伸で軽井沢とつながる敦賀市で、昨年秋にできた話題の書店「ちえなみき」と敦賀港の観光施設「ムゼウム」の二つを取り上げて、軽井沢との共通点と相違点、地方創生のあり方について考えてきました。最後にお一人ずつ、これからについてお話いただければ。
西川 人道の港・敦賀としてブランド化するためには、一度ではなく何度も行きたいと思われる場所にするため、関連する資料は充実させていかないと思っています。そのためには関係者とコンタクトをとりつづけ、資料をいずれは敦賀には預けてもらいたいと考えています。
と同時に、敦賀の若い人たちに、自分たちが住む場所は人道に力を入れてきたところだということを知ってもらう努力も必要です。地元の高校生が館内ガイドを務めていただくなど、素晴らしい活動が根付いてきていますが、さらに若年層向けの船舶ペーパークラフト教室など、港町としての敦賀の歴史を考える契機ともなるイベントを積極的に企画したいと考えています。
軽井沢には戦時中に関係国の大使館が疎開していますね。そういう人たちが、敦賀に来た難民となんか接点があったかもしれない。それを切り口にすると、敦賀と軽井沢の間に、私たちが知らなかった関係があるのではないか。新幹線でつながるのを機に調査を始めようと思っています。
鈴木 並べ方によって本の見え方が変わるように、敦賀が持つコンテンツも並べ方によって見え方がガラリと変わると思います。逆に言えば、本の並べ方を通して、敦賀の見せ方も学べるかもしれない。そうした、いわゆる編集について語り合う場に「ちえなみき」がなればいいなと思っています。
野村 人口減少が加速する日本で、地域がどういう役割をするかが問われる時代になっています。成長が当然視されてきた前提が崩れ、大都市経済圏の力も失われ、さりとて地産地消ですべてが成立するわけにはいかないなか、地域と地域がそれぞれの個性を活かし、経済・文化の連携を模索しなければいけないと思っています。本は間違いなくそれを考える核になる。「ちえなみき」を通じてその手助けをしたいですね。
芳野 ちえなみき」と「敦賀ムゼウム」から敦賀の本質と可能性、そしてこれからの地方都市の可能性が見えてきました。今日はお話いただき、ありがとうございました!
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