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聞こえたり「聞こえなかったり」 聴覚失認という脳の迷路

【最終回】障害者と防災を考える

三谷雅純 大学教員、霊長類学・人類学の研究者、障害当事者

あなたも論の座に

 「さまざまな社会課題に直面している当事者や、課題解決にとりくんでいる人たちの論をご紹介したい」との編集部の呼びかけに応えていただいて始まった三谷雅純さんの連載「〈障害者〉と創る未来の景色」は、「論座」のクローズに伴い、10回目の今回が最終回となります。三谷さんは脳塞栓(そくせん)症の後遺症で障害を抱えつつ、人類学研究にとりくんでこられたご自身の体験から、障害者と社会とのかかわりについて示唆に富むご意見やご提言を寄せてくださいました。最終回の今回は、障害者と災害についてご自身の研究体験も踏まえて考えます。(論座編集部)

 関東大震災は1923(大正12)年9月1日に起こっていますから、2023年はちょうど100年目に当たります。節目の年ということで、今年は防災、中でも今まであまり語られてこなかった障害者と防災の話題が増えるのではないでしょうか。関東では首都直下型地震が懸念されています。西日本の広い地域では南海トラフ地震が懸念されています。それだけに「大震災」という言葉にナーバスになるのです。このように過去の震災がことさら喧伝されるのは、人びとの間に恐怖がひたひたと迫っている実感があるからではないでしょうか。

大震災のただ中で障害者は?

 関東大震災は正午少し前に起こったそうです(「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年7月、1923 関東大震災)。その時間であれば、多くの家では昼食の準備をしていたでしょう。煮炊きにはまだ火を使っていたかもしれません。つまり日常のなかに起こった大災害だったことになります。日常のなにげない時間に起こる災害は、それだけで日常を破壊します。

 1995年にはわたしに身近な土地でも地震がありました。阪神・淡路大震災です。阪神・淡路大震災は早朝の6時前に起こりました。朝の早い家ではもう朝食がテーブルに並んでいたのかもしれません。これから会社や学校に出かける準備をしていたときです。都市伝説に過ぎなかったのですが、人びとは関西方面に大震災は起きないのだと信じ込んでいました。それが淡路島北部から神戸市を中心とする阪神地域全体に被害をもたらしました。まったく予期できませんでした。

震災から3日目。火災が発生した神戸市中央区三宮2丁目付近の繁華街から火の手があがりビル街が黒煙に包まれた。写真右奥中央の高層ビルは「神戸朝日ビルディング」その左奥は神戸市役所=1995年1月19日、神戸市中央区 朝日新聞ヘリコプターから阪神・淡路大震災から3日目。火災が発生した神戸市中央区三宮2丁目付近=1995年1月19日、朝日新聞ヘリコプターから

 大震災のただ中で障害者はどうしていたのでしょうか。イメージできる人がどれくらいいらっしゃるでしょう。多くの方は十分にはイメージできないと考えた方がいいのかもしれません。

 障害者に限りません。高齢者がいます。妊産婦にも手助けが必要です。赤ん坊や幼児もいます。もしこのような人が大きな揺れの中で孤立してしまったら、どうするのでしょう。

 残念ながら阪神・淡路大震災が起こった1995年に、障害者がどうしていたかについて十分な記録はありません。理由はわかる気がします。障害者が地震に遭うというのは大変なことだと感覚的には理解できます。しかし、具体的にどんなことに困り、逃げ遅れたのなら、どうして逃げ遅れたのか、命を落としたのなら、なぜ命を落としていったのかまではイマジネーションが追い付かないのです。

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