友人の九鬼伸夫医師との対話【上】
2023年04月21日
ジャーナリスト、隈元信一さんの「闘病記」。連載の最後に、友人で医師の九鬼伸夫さんとの対談を2回に分けて掲載します。腺がんと神経内分泌がんとの混合という「ややこしい前立腺がん」になり、2021年の夏、「余命3カ月から半年」と宣告されてからの日々と、これから、を語り合います。
生は限りあるもの。この当たり前のことを意識しないで過ごせる時間が長くなったのが、今という時代の特徴かもしれません。でも一方で、死因トップの『がん』は、治る率が五割くらいになったとはいえ、あと数ヶ月といった命を見つめざるを得ない人が多い病気でもあります。治すのは無理でも、末期がん患者の『生』をもっと応援できないだろうか。そう考える医者も増えてきました。そんな現場の声に耳を傾け、死を見つめ、生きる意味を考えることで、このシリーズの締めくくりにしたいと思います。
これは35年ほど前に私が書いた文章だ。
1984年から88年にかけて、朝日新聞の家庭面に「読むクリニック」という連載をしていた。連載の最終シリーズ「死をみつめる」の前文として、書籍化の時に書いた。
当時34歳、血気盛んな時期で、自分自身が末期がんになろうとは、夢にも思っていない。「もっときちんと死を見つめなさい」。そんな神の声のようなものに導かれて、67歳で末期がんになり、「論座」にこの連載を書いてきた気がする。
連載を終わるに当たって、ゲストとして九鬼伸夫さんを招き、オンライン対談をすることにした。
九鬼さんは朝日新聞記者として家庭面の「読むクリニック」連載を始め、私を誘ってくれて、手分けして全国の医師を訪ね歩いて記事を書いた相棒だった。しかし彼は、連載の完結を待たずに退社、富山医科薬科大学(現富山大学)医学部に入学して医者になってしまった(略歴参照)。この連載では、医学的な正確を期すため、原稿をチェックしてもらっていた。
数十年の時を隔てて再びの二人三脚は感慨深く、心強かった。
九鬼伸夫
1951年生まれ。国際基督教大学教養学部理学科を卒業し、76年朝日新聞社入社。学芸部記者などを経て、87年に退社。九鬼伸夫さん
翌88年に富山医科薬科大学(現・富山大学)の医学部入学。94年医師免許を取得し、同大学和漢診療学教室入局。95年千葉県成田赤十字病院内科に移り、97~2020年東京・銀座内科診療所の院長を務めた。
隈元 僕ががんを告知されてから1年半を振り返って、どんな感想を持っていますか。
九鬼 「心底びっくり」だね。2021年8月24日に会った時は腰の痛みで苦しそうにしていた、その1週間後には動けなくなって緊急入院。あの時は、これっきり退院できないか、と実は思っていた。同じ年の12月6日に自宅を訪ねた時はベッドに寝たきりに近い状態だったから「生きて退院できてよかった」とは思ったけど、年は越せてもその先どれだけあるか、と思っていた。
2022年11月に外で待ち合わせして会った時、元気な歩きぶりに目を疑ったよ。あなたが本当によくがんばったということもあるし、医学の進歩に救われた面もあるけれど、あなたが運を呼び寄せたというか、同じように難しいがんの人が同じように「よし!闘うぞ」って闘ったら、同じ結果があるとも思えない。「すごいことに立ち会ったなあ」っていうのが正直な気持ちです。
隈元 医者として、あまり出会ったことはないケースということかな。
九鬼 ですね。最初に相談を受けた時、前立腺がんに詳しい知り合いの医師何人かにも相談したんだ。「もうホスピス探しでしょう」といった反応でした。だからあなたは今、いわばビクトリーランを走っている。がんを治すことがゴールなら敗北かもしれないけど、そうは考えない方がいい。病気を持ちながらも、納得のできる人生を送る、それもある程度のまとまった時間がとれたっていうのは、素晴らしい勝利だと思います。
隈元 適切で、ありがたいお話でした。「治すところまではいかないだろうな」っていうのは、自分でも分かってるからね。
九鬼 がんに対する考え方が昔と変わってきている面があるよね。
昔は治癒が望めないと分かったら「医者の仕事は終わった」に近い感じが、僕が病院にいた頃でも、まだ残っていた。緩和ケアがもっと大事じゃないか、って学会なんかでもようやく言われるようになって、僕もそういうことに興味を持って学会に参加したりしていたけれど、病院全体としては「そんなもの」っていう感じの方が、特に昔の先生は強かったと思う。
連載のこれまではこちらでご覧いただけます。
隈元 治療法も変わったよね。
九鬼 骨転移の治療や疼痛管理については、目を見張るほど進歩したと、あなたの経過を見ていて思ったよ。
昔は手の出しようがなかった進行肺がんや膵がんのような難しいがんでも、月単位、あるいは年単位で、ある程度クォリティ・オブ・ライフ(生活の質)を保って生活できるような薬が使われるようになっている。
がんとサヨナラはできないけれど、がんと共存しながら、ある程度の時間が持てる、そういう治療もすごく意味があるっていうことを、あなたを見ていて改めて思った。
自分のクリニックを閉じてからは会社の健康診断の仕事を主にしているんだけど、元気そうにみえて「がんの治療中です」という人に会ってびっくりすることがある。患者さんの考え方も医者の考え方も、昔とは変わってきたなあ、と実感しますね。
隈元 がん治療について相談されると、どんなアドバイスをしてますか?
九鬼 「がん」と一般化すると、幅が広すぎると思う。会社の健診でも既往歴に胃がんとか大腸がんとか書いてある人はたくさんいるわけ。内視鏡で切除したから、傷も何も残っていない、がんはその人にとって一過性のエピソードにすぎない。そんな人もいっぱいいるわけね。
隈元 同じがん患者でも、軽いところで留まった人、それを越えて僕みたいに全身の骨に転移しちゃったり、神経内分泌がんが混じっちゃったりした人とは大違いって感じかな。僕のような重篤ながんの患者に対するアドバイスとしては、どうですか?
九鬼 僕はがん治療に関わった経験が少ないし、主治医として今関わっているわけでもない半退役医師だから、その時かけられる言葉をかけるしかない感じです。反対にあなたは、自分の経験をふまえて、重篤ながんの人にアドバイスするとしたら、どんな言葉をかけますか。
隈元 一言で言うなら、「絶対に諦めない」という姿勢だと思う。
隈元 「絶対に諦めない」と言っても、諦めざるを得ない時は必ず来るわけだけど、そこまでは気持ちを強く持つこと。サッカーに例えれば、0-3で負けていても、アディショナルタイムに3点入れて引き分けに持ち込めるかもしれない。僕の場合はそんな意味で、人生のアディショナルタイムをもらったかなと思っています。
これまで紹介してきた中で、元官僚の「生きると思わないと、死ぬよ」という言葉とか、僕が「がんばれ」を「がんを張り倒せ」と言い換えたりしているのも、そういう気持ちを持たないと、一気に心身が弱まってしまうという予感があるから。病は気からとも言うしね。
九鬼 ほかには?
隈元 自分の頭で考えて行動することかな。ちょっとでも医者の言うことに疑問があったら、きちんとぶつける。
そのためには、情報収集をしなくちゃならない。今はネット検索でかなりのことが分かるってことを、がんになって再発見しました。あとは、友人に医者がいたら、その人の意見も聞いてみる。目の前のお医者さんを信頼しているとしても、違う人の意見も聞いてみた方がいい。
患者も家族も、一人で抱え込んではいけないし、医者にまかせっきりもいけない。自分のネットワークやインターネットを活用して、仲間と一緒に闘病していく姿勢が大事なような気がします。
九鬼 あなたの場合は結果が良かったからいいけど、治療効果が期待したようには出なくて、苦しみだけ受けるようなことになるかもしれないわけだよね。あくまで攻めて闘うのがいいのかって思うところはある。
隈元 そうだね。この連載でも「逃げるが勝ち」ってこともありうるって書いたけど、僕もいずれそういう時がくるかもしれない。
九鬼 自分で調べて考えるも正論だけど、あなたは情報を得て整理するプロだし、人脈もあるから、変なところにたどり着かなくて良かった。とんでもないことになる人もいっぱいいるわけだよ。これさえあればがんは治る、みたいな怪しい情報がたくさんある。誘いに引っかかって高額なお金を無駄にしないで、ということは言っておきたいな。
隈元 同感です。僕はかつて悪徳商法の取材もしていたから、悲惨なケースを目にしました。お互い、気をつけましょう。ネット空間は、悪しき情報が溢れていることを前提にして、それを巧みに避けて、良き情報に辿り着くための知恵を磨きましょうってことかな。
4月22日午前10時公開の〈下〉に続きます。
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