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ミャンマー難民・移民受け入れの限界を超えたタイ国境の「病院」と「学校」

クーデターとコロナ禍で資金難と態勢不足が続く。求められる支援と寄付

明治大学情報コミュニケーション学部 小田光康、関口樹、大橋直輝、森下奎志

 ミャンマーの軍事クーデターから2年がたった現在、タイ国内に流入するミャンマーからの難民や不法移民の問題も深刻化しています。論座のレギュラー筆者である小田光康さんが、教鞭を執る明治大学情報コミュニケーション学部の学生らとともに、タイ国内にあるミャンマー難民のための病院と学校を取材しました。前回に引き続き、そのレポートをお届けします。

 「ビルマのマザー・テレサ」

 親しみと畏敬の念を込められて、こう呼ばれる一人の女医が国境の町にいる。

 シンシア・マウンさんがその人だ。貧困やミャンマー国軍の弾圧から逃れて満足に医療を受けられない移民や難民を救うため、タイ北西部にあるミャンマーとの国境の町として知られるメーソートに1989年、メータオ・クリニック(Mae Tao Clinic)を設立した。内科、外科、小児科、歯科、眼科、産婦人科の診療をはじめ、カウンセリングや学校運営などの社会サービス、さらには患者の訪問ケアまで、ミャンマーからの難民や移民を無償で支援する医療機関だ。

 筆者らは2023年3月、このメータオ・クリニックを取材に訪れた。車に乗り込みメーソートの町を離れて約10分。病院に近づくにつれ人家はみるみるうちに少なくなり、あたりは田んぼや雑草が生い茂る空き地が広がった。道端を歩く人の青色のマスクが目立つ。

 クリニックは市街地から北西へおよそ4.4km、ミャンマーとの国境から東におよそ2.5kmに位置する。町の中心部から離れ、人影がまばらな土地にあるのは、移民や難民がタイ国内に紛れ込んでしまうことをタイ政府が懸念していることもある。

メータオ・クリニック入口=2023年3月9日、タイ・ターク県メータオ・クリニック入口=2023年3月9日、タイ・ターク県

 周囲に人家はなく、まるで隔離されたようだ。ただ、病院の入り口は賑わっていた。雑貨や食料品を売る簡易な店舗が建ち並び、入院患者の差し入れにも利用されている。店の前には客待ちのバイク・タクシーが列をなす。タイの庶民の足はスクーター。ホンダやヤマハなど日本のメーカーがタイで生産した小型自動二輪だ。未舗装の道路が多いため、大きな車輪を前後に履く。家族で乗るため、シートが大きい。3人乗りは当たり前で、時には125ccの小型バイクに5人も乗る。このバイクが患者の送迎用の「タクシー」だ。

 駐車場には荷台に10人ほどが乗れるピックアップ・トラックがずらりと停まっていた。建物は細かく25棟ほどに分かれ、ほとんどが二階建てのコンクリート造りだ。青や緑、白や灰色と屋根の色はバラバラで、建て増し、継ぎ足しの跡がうかがわれる。中にはクリニックを支援するタイ国内外のNGO団体が入居するレンガ造りの建物も立ち並ぶ。

(敷地内に立ち並ぶNGO団体の建物=3月9日、タイ・ターク県メータオ・クリニック)敷地内に立ち並ぶNGO団体の建物=3月9日、タイ・ターク県メータオ・クリニック

 乾季のこの時期、未舗装の道路を車やバイクが走ると、赤土のほこりが舞い上がる。しかも山間地での野焼きによるスモッグも酷い。車を一晩駐車すると、フロントガラスにうっすらとほこりが積もるほどだ。ボランティア・スタッフが天然芝を編み竹の柄を付けた草ほうきを持ち、敷地内をくまなく掃除していた。

 靴を脱いでクリニックの建物に一歩踏み入れると、アルコール消毒のにおいが立ち込めていた。コロナ禍の影響もあり、衛生環境はさらに徹底されている。廊下やトイレもほこり一つ落ちてないほど清掃が行き届いていた。それはメーソートを包み込むほこりっぽさとはかけ離れていた。

 待合室には悲痛な表情を浮かべる救急患者、手足が不自由な障がい者、泣き叫ぶ子供を必死になだめる母親の姿であふれていた。病棟の中をうろうろしている子どもたちもいた。その横で看護師ら医療スタッフやボランティアの人々がせわしなく行き来していた。建物の2階の会議室に入ると、このクリニックで地域運営部門の副長を務めるナウ・アニーさんが笑顔で迎えてくれた。

取材に応じてくれたナウ・アニーさん=3月9日、タイ・ターク県メータオ・クリニック取材に応じてくれたナウ・アニーさん=3月9日、タイ・ターク県メータオ・クリニック
 「メータオ・クリニックは医療面だけでなく、公衆衛生や教育などの全ての面で社会貢献活動を行っています」。アニーさんはそう話す。

 幅広い支援を継続するため、職員は医療スタッフが166名、ヘルスワーカーやボランティアといった非医療スタッフが223名という体制を敷く。病床数は140床だが、患者数は年間で約15万人にのぼる。この半数がミャンマー国内で貧困などの理由から医療を受けられず国境を越える人、もう半数がタイ国内に居住するミャンマー難民や移民だ。マラリアや肺炎に苦しむ人や地雷被害者、出産を控えた女性など様々な患者がクリニックを訪れる。

 「収入面では、アメリカをはじめとする海外の支援団体、またタイ国内や政府からの資金援助を受けています」

 アニーさんがそう話すように、このクリニックは活動資金の大半を世界各国の支援団体などからの寄付で賄っている。毎年約3億円を必要とする財源は、寄付がなければ成立しない。

 「2020年の年間支出額は約2億円、支払い能力のある患者さんから多少の医療費をいただくなどで、約2000万円の収入がありました。」

 このクリニックをサポートする日本のNPO法人「メータオ・クリニック支援の会」(通称JAM、東京都新宿区)に所属し、自身も内科医である有高奈々絵さんはそう話す。
 JAMは2008年の設立以来、クリニックが直面する様々な課題に対して日本から支援をしている。医療人材の派遣や技術提供といった医療支援をはじめ、院内の感染症対策と啓発活動、さらには医療物資や設備投資までと支援内容は幅広い。ミャンマー国内でのクーデターなど情勢の変化でクリニックが緊急事態に陥った際には、緊急資金援助も随時実施してきた。

ノーベル平和賞候補になった院長

 シンシア・マウンさんはこのメータオ・クリニックで創設以来、院長を務めている。
1959年、ミャンマー最大の都市ヤンゴン近郊の村でカレン民族の両親のもとにシンシアさんは生まれた。カレン民族がビルマ政権に自治権を求めて反発を繰り返す中で、幼い頃からカレン民族の医療問題について目の当たりにしてきた。医療知識を身につけ、その現状を解決することを志した父の意思を受け継ぎ、ラングーン大学(現ヤンゴン大学)に進学し、1985年に医学部を卒業した。その後、大病院に勤める医者となった。

 ただ、当時の医療現場には残酷な現状が待ち受けていた。生活困窮者は医療を受けることができず、門前払いされる悲惨な光景が目の前に広がっていた。「ごく一部の裕福な人々を救うために、私は医学を学んだのか」とシンシアさんは日々自問自答した。そして故郷の村に帰り、カレン民族のために医師として生きることを決意した。

 しかし、軍政府の脅威は村にまで及んだ。シンシアさんは自らの身の危険を感じ、故郷を離れる選択をせざるを得ない状況に追い込まれた。ジャングルに踏み入り、濁流の川を渡る3カ月に及ぶ逃亡の末、辿り着いた一時の安全地帯がタイ国境の町、メーソートだ。1989年、この地で軍事政権の弾圧から逃れ共にタイへ亡命してきた7人の学生と共にメータオ・クリニックを設立した。さらに1997年からはミャンマーからの移民の教育支援として、移民小学校を開始した。

 『タイ・ビルマ 国境の難民診療所−女医シンシア・マウンの物語』(宋芳綺著)の中でシンシアさんはこう語っている。

 「努力し続けることで、ビルマに平和が訪れ、愛する我が家に戻れる日が来る。私はそう願っています」。

 移民・難民支援に身を捧げ続けるシンシアさんの活動は、世界から支持を受ける。2002年にアジアのノーベル賞と称される「マグサイサイ賞」を受賞した。さらに翌年には米TIME紙で「アジアの英雄」に選出され、2005年にはノーベル平和賞候補にもノミネートされた。

 しかし、シンシアさんの活動は終わりが見えない。止まらぬミャンマー軍事政権による少数民族の迫害や衛生状況の悪化から、ミャンマーからタイへの難民や移民の数が減ることはなく、クリニックを訪れる患者も絶えることはない。

 「シンシア先生は毎日、朝から晩まで診療や会議で忙殺されています。きょうも取材対応できるかどうか分かりません。もし、会えなかったらごめんなさい」。広報担当のアニーさんはすまなそうな表情でこう話した。結局この日、シンシアさんは多忙を極め、面会することは叶わなかった。

 「シンシア先生は腕がない人や足がない目がない人、今にも死にそうな人たちの治療を常に行っています」。JAMの有高さんも筆者らにこう付け加えた。

国際情勢のあおりを受け慢性的に資金難

 ミャンマーでは2015年にアウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が、軍事政権の流れを汲む与党の連邦団結発展党(USDP)に総選挙で圧勝し、歴史的な政権交代を果たした。以降、国際NGOや各国政府からの資金援助はクリニックなどタイ国内の支援団体からミャンマー国内の団体へと向けられた。2017年にはクリニックへの寄付金総額がそれまでから7割も減り、極度の資金難に陥った。

 さらにその後、コロナ禍と軍事クーデターという惨事が状況を一変させた。パンデミック時はミャンマーとタイの国境にかかる「第一友好橋」が閉鎖された。1997年に完成したこの橋はタイ北西部ターク県メーソートとミャンマー東部カイン州ミャワディを繋ぐ二国間の貴重な貿易ルートだ。国境封鎖の影響でミャンマーからクリニックを訪れる患者がいなくなり、年間の外来患者数は6万人にまで落ち込んだ。ところが2021年、ミャンマーで軍事クーデターが勃発し、2022年には国境封鎖が緩和されたので、訪れる患者はコロナ禍以前の数に戻りつつある。

 アニーさんはコロナ禍以降のクリニックの変化をこう語る。

 「クリニックを訪れる患者は以前まで国境付近に居住するカレン族が中心でしたが、コロナ禍以降は国境から離れた都市部に住むビルマ族、ヤンゴンからの患者など多様性が増しています」

 混沌とした情勢が続くミャンマー国内で満足な医療を受けることができない患者の訪問が後を絶たない。

 在日ミャンマー難民のミョー・ミンスェさんは「ミャンマー国内の病院は現在、軍が運営しています。(医療費が)ものすごく高いので一般の人たちは近寄れないです。デモや空爆で怪我した人たちは全然見てくれません。軍人や金持ちが通う病院みたいになっています」と教えてくれた。

 クリニック敷地内の診療棟の外にある受け付けのベンチには、乳児を抱えた母親や一人で来院した少年、足の指をなくした青年らが不安そうな表情を浮かべて順番待ちをしていた。

 「患者だけではなく資金援助に関しても、皮肉なことにクーデター以降はミャンマー国内からタイ国内の国境地域へと戻ってきています」

 JAMの有高さんはそう話す。コロナ禍とクーデターで支援の援助が変わった。そしてメータオ・クリニックの重要性はさらに増している。2021年は547人、2022年1月から5月までは996人のコロナ患者の入院を受け入れた。ワクチンはタイ政府から無償提供を受けることができ、それぞれ1673回と1万1264回の接種をした。

 しかし、患者数が増えるにつれて資金難の深刻さは増してしまう。刻々と変化するミャンマー国内や国境付近の情勢に対応し、安定した医療を提供し続けるためにはより多くの活動資金、つまり多くの支援や寄付が求められている。

大人にも教育機会を与えるミャンマー移民のための学校

 メータオ・クリニック前にある幹線道路を挟んだ反対側からは、子どもたちの元気な声が聞こえてきた。田んぼに囲まれた中にコの字の建物がぽつんと立っていた。声がする建物に近づき中を覗くと、グラウンドも建物内も子どもたちで溢れかえっていた。ここがミャンマー難民の子どもたちの将来のために教育支援を行う施設、Children Development Center School(CDC)だ。

(バドミントンや卓球で体を動かす子どもたち=3月9日、タイ・ターク県CDC)バドミントンや卓球で体を動かすCDCの子どもたち=3月9日、タイ・ターク県

 筆者らが門から校内に入ると、白いワイシャツと黒い半ズボンの制服姿や体操服姿の子どもたちが、バドミントンや卓球を楽しんでいた。校庭に響く声からはタイ語やミャンマー語が聞こえた。

 「メーソートにはミャンマーで十分な教育の機会をもらえなかった子どもや、職を失った大人が仕事を求めてやってきます」。筆者らを出迎えてくれた副校長先生のソー・タン・タン・レイさんはこう語った。

 ミャンマー出身のソー・タン・タン・レイさんもCDCで学んだ生徒の一人だ。高等教育と仕事を求めて2005年に国境を渡ってきた。現在は父と母、兄弟合わせて家族10人とメータオ・クリニックの近くにある家で暮らしている。

 校舎内を歩いていると子どもたちが「ありがとう」と日本語で挨拶してきた。実はCDCへは日本のJAMが資金提供しており日本に対して親しみを持つ子どもも多い。

 各教室の前に下駄箱があった。校舎内は土足だが、教室に入るときに靴を脱ぐ。校長室に入ると、まず大小様々なトロフィーが目に入った。 「これらのトロフィーはCDCの生徒がアートやスポーツの大会で獲得したものです」と校長先生のマイ・シュイニーさんが胸を張った。

 「1988年にミャンマーで発生した大規模民主化運動で多くのミャンマー人が国境を越えてタイに逃げてきました。私はその時の学生リーダーです」。校長のマイ・シュイニーさんが自らの過去を振り返った。

 部屋の棚に飾られた写真の額縁には一人の女性の写真が写っていた。シンシア・マウンさんである。CDCはシンシアさんが院長を務めるメータオ・クリニックが運営しており、その起源は1995年まで遡る。当時クリニックに勤めていたスタッフの子どもたちのデイケアセンターとしてCDCの前身となるプログラムが開始された。

(自身の過去について語ってくれたマイ・シュイニ―さん。棚にはシンシアさんの写真が=3月9日、タイ・ターク県 CDCCDC校長のマイ・シュイニ―さん=3月9日、タイ・ターク県

 タイ政府の2020年の推計によるとメーソートの人口約9万人のうち約3万人がミャンマーからの不法移民とされる。不法入国者である彼らは身分証明書を所持していない。もちろんその子供も同じである。そのためタイの公立学校に入学できないという問題があった。そこで、シンシアさんはクリニックの裏に部屋を借り、現地のキリスト教会の支援を受けて幼稚園を設立した。

「現在は幼稚園生から12年生(日本でいう高校3年生)までがこのCDCで学んでおり、全校児童・生徒数は約800人です。ここで教えるスタッフは先生、事務員、警備員、ボランティアを合わせて67人います」。ソー・タン・タン・レイさんはこう説明した。プログラム開始時は5人のスタッフで20人の子どもたちをケアしていたが、それから約30年でこの規模まで発展した。

 CDCのカリキュラムにはタイ語、ミャンマー語、英語、数学、理科、社会、コンピュータやスクールヘルスなどの科目がある。SRHRという科目では心と体を守ることを目的とし、身の回りのことから食事のことまで指導している。この教育カリキュラムはいずれ故郷に帰ることを前提としたミャンマー国内で実施されている内容も採用している。

CDCで学ぶ子どもたち=3月9日、タイ・ターク県CDCで学ぶ子どもたち=3月9日、タイ・ターク県

 ただ、この学校を卒業したからといって、子どもたちの将来が開けるわけではない。CDCの学歴はタイ政府に認められていない。タイ国内ではタイ政府が認めた学歴が無いと就業機会が極端に狭まる。そこでCDCはタイのノンフォーマル教育プログラム関連の(NEF)やBEAM 、Thabyayといった非営利教育財団からの協力を受け、 Pre-General Education Development (Pre-GED) という教育プログラムを採用している。これらのプログラムを修了すると、生徒は高校生の学習レベルに到達した証明となり、タイ国内外の大学に入学する資格を得ることになる。このような取り組みを通じて、CDCは生徒らが認定された教育プログラムにアクセスする道を確保している。

 「実際に50人以上の生徒がこれらのプログラムを利用し、タイや香港、ベトナム、フィリピンで学習しています」。ソー・タン・タン・レイさんはこう付け加えた。

移民流入で生徒数が急増、受け入れを制限

 2020年1月、タイで初の新型コロナウイルス感染者が確認された。感染は全土へ一気に広がり、3月末には緊急事態宣言が発令された。CDCも約2年間の閉鎖を余儀なくされ、2020年に卒業予定であった生徒は、卒業要件の期末試験を受けられない事態に陥った。

 閉鎖中のCDCはパンデミックの中でも教育の機会を提供するため、遠隔授業に注力した。しかし、児童・生徒だけでなく先生側のインターネット・リテラシーが不足していたことで、スムーズな授業を実施できるまで何度も試行錯誤を重ねた。

 ソー・タン・タン・レイさんは、「中にはインターネットの利用経験が無い先生もいて、まずは先生にパソコンの使い方を一から教えるところから始めました」と、全てが未知であった当時を振り返った。

 2023年1月12日、約3年間に渡るパンデミックによる国境封鎖を経て第一友好橋が開通した。国境を接するミャンマーのミャワディから多くの人や物がメーソートに渡ってきて、街には活気が戻りはじめた。しかし、コロナ禍から抜け出す希望が見出されてきたこの時期に、CDCは新たな苦境に直面することになった。

 「定員をはるかに上回る入学希望者がいて、遂に受け入れ制限をしなければならなくなりました」

 ソー・タン・タン・レイさんは悔しさを露わにした。国境封鎖が解かれたことにより、ミャンマーでの低賃金労働から離れてタイへ出稼ぎにくる移民が急増した。さらに子を持つ人々は、より質の高い教育を受けさせるために一家総動員で国境を渡ってくる。CDCは可能な限り多くの児童・生徒を受け入れるため、30名であったクラスの定員を倍近くにまで拡大させた。それでも移民の流入は止まらず、遂には受け入れを制限しなければならない事態が発生してしまった。

 ただ、移民の流入が与える影響はネガティブな要素だけではない。「コロナ禍やクーデターの後、紛争で親を亡くした子や長年住んだ家を焼かれた子など、異なった背景を持つ子どもたちが互いに交流をし、校内に新たな調和が生まれています」。ソー・タン・タン・レイさんは現状を悲観的に捉えるのではなく、そこに希望を見出していた。

 祖国から離れ、精神的な居場所をなくした子どもたちが、避難先の政府から認められない移民学校という新たな居場所でアイデンティティを保つ。そして、祖国に帰る日を待ち続けている。

 「ぜひ子どもたちに日本語を教えてあげてください」

 取材が終わり廊下に出ると、そう言って筆者らを教室の中へと招待してくれた若い教員がいた。

 「こんにちは」「ありがとう」

 筆者らが簡単な日本語を教えると、教室内の子どもたちが興奮して席を立ち、群がってきた。嬉しそうに筆者らの真似をする子どもたちの顔には笑みが溢れていた。

 この子どもたちの笑顔が「忘れられた難民」の微かな希望を、これからも繋いでいく。

(退室する筆者らに感謝の挨拶をする子どもたち=3月9日、タイ・ターク県CDC)退室する筆者らに挨拶をするCDCの子どもたち=3月9日、タイ・ターク県