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写真・図版 : 清水ツルコの被爆した指は、右3本と左2本しか使えない。半分に曲がったままの指を使い、和裁で生計をたてて幼い息子と弟を育てた(広島、1984年)©Yoshino Oishi

清水ツルコの被爆した指は、右3本と左2本しか使えない。半分に曲がったままの指を使い、和裁で生計をたてて幼い息子と弟を育てた(広島、1984年)©Yoshino Oishi

  • 写真・図版 : 清水ツルコの被爆した指は、右3本と左2本しか使えない。半分に曲がったままの指を使い、和裁で生計をたてて幼い息子と弟を育てた(広島、1984年)©Yoshino Oishi
  • 写真・図版 : 清水ツルコ。背後の箪笥は彼女が17歳のときから波乱の人生を見てきた(広島、1994年)©Yoshino Oishi
  • 写真・図版 : 山岡ミチコ(1930年生)は、女学校から学徒動員で西電話局へ向かう途中、爆心地から800mの三川町の路上で被爆。3歳で父を亡くした母子家庭だったが、母親も被爆した(広島、1985年)©Yoshino Oishi
  • 写真・図版 : 原爆ドーム(広島、1984年)©Yoshino Oishi
  • 写真・図版 : 被爆した峰徹(左)と弟の木口久(長崎、2015年)©Yoshino Oishi
  • 写真・図版 : 被爆した深堀悟(長崎、2015年)©Yoshino Oishi
  • 写真・図版 : 山川剛(1936年生)と妻・富佐子(1942年生)。剛は自宅防空壕の脇で熱線を浴びて火傷。小学校の教員になり、平和と戦争を考える教育をつづけた。富佐子は自宅で被爆。小学校給食の栄養士になり、夫と出会う。子ども2人、孫3人。(長崎、2015年)©Yoshino Oishi
  • 写真・図版 : 被爆したマリア像。かつてカトリック浦上天主堂の祭壇にあった木製の聖母像。この像のモデルはムリーリョ作『無原罪の御宿り』と伝えられる(長崎、1998年)©Yoshino Oishi
  • 写真・図版 : 壕のなかで亡くなった妹の頭蓋骨を発見。涙を流す崎山キク(沖縄・伊江島、1984年)©Yoshino Oishi
  • 写真・図版 : 過酷な沖縄戦を体験した仲間ナツ(左)と古堅キヨ子=1928年生=(沖縄本島、1982年)©Yoshino Oishi
  • 写真・図版 : 佐久本静(1921年生)は、壕のなかで2人目の子を出産したが、そこを追い出されて別の壕に移動した。食糧も水も乏しく、母乳が出なくなり、生まれたての息子は45年6月21日に、3歳の娘は翌日亡くなる(沖縄本島、2005年)©Yoshino Oishi
  • 写真・図版 : 宮平春子(1926年生)は、父親から「自決しよう」といわれたが、山に逃げた。兄一家6人、親族の17人、特攻隊で2人の兄が亡くなった。子ども4人、孫7人。孫の愛(6)と里帰りした座間味島で(2007年)©Yoshino Oishi
  • 写真・図版 : 大石芳野。東京都内の仕事場で