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本田圭佑、大久保利通、大平正芳、そして菅直人  

曽我豪

曽我豪 朝日新聞編集委員(政治担当)

 不覚にも涙が出た。

 善戦空しくPK戦に負けたことはもって瞑すべしだし、絶叫調の実況中継に同調したわけでもない。ただ、サッカーはワールドカップ、南アフリカ大会の対パラグアイ戦の直後、本田圭佑選手のインタビューには正直、やられた。

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 「応援してくれた人も、批判してくれた人も僕たちにとっては大事な存在でした」

 大会前から負ける負ける監督失格だと水をさし、勝ったら勝ったで名采配だ勇気をありがとうと手のひらを返す僕たちメディアへの思いは当然あるだろう。それでもあの場で、批判をも自らの力に変えたのだと言える24歳に泣けた。自分の力量は棚に上げ、国民が「聞く耳」をもたぬとすごいことを言い募り、辞任の記者会見さえ逃げた前の総理大臣のことを思えば、艱難が人を珠にするかどうかは年輪や社会的地位にいささかも関係ないのだと思い知る。

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 そう書き始めてその二人の鮮やかすぎる対比は実は今の政治の宿痾みたいなものを象徴しているような気がしてきた。いつから日本の政権、政党、政治家は内外からの批判に負けやすい、対立が憎悪しか生まないひ弱な存在になってしまったのだろう。

 きっと、かつてはこうではなかった。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」に触発されたわけではないが、最近出た坂野潤治東大名誉教授と大野健一政策研究大学院大学教授の共著「明治維新 1858-1881」(講談社現代新書)を読むと、近代東アジアに稀な日本の近代化の成功の理由のひとつは「指導者自身の可変性と多義性に関わる柔構造」にあったことがわかる。

 つまり、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、板垣退助ら薩長土三藩の指導者たちは幕末維新、「富国」「強兵」「憲法」「議会」とその時々で最優先のアジェンダは異なったにせよ、「相互に抜き差しならない対立の追い込まれた時でも、衝突の寸前まで互いに相手の善意を信じ込んでいた」点を共著者は評価する。最後は西南戦争で雌雄を決した西郷と大久保でさえ、発火点の征韓論争の前年、岩倉使節団に同行した大久保がイギリスで見聞した近代工場の姿を詳細に手紙で西郷に書き送った点に着目する。指導者層が状況に応じて「可変」し、「大きな混乱や消しがたい遺恨を生むことはほとんどなかった」ことが、維新初期の近代化路線を確かなものにしたという。

 相互批判・内部対立を次の時代を切り開くプラスのエネルギーとする政治の知恵はそれにとどまらず、例えば柔構造と言えば長期政権時代の自民党だってそうだ。表面は派閥間の権力闘争であっても、非主流派が常に主流派が持つ政策上の弱点を補おうと努め、次の首相候補を準備しておく「可変」の意味は間違いなくあった。福永文夫独協大教授の「大平正芳 『戦後保守』とは何か」(中公新書)は、1979年の衆院選敗北後の「40日間抗争」における興味深いエピソードを記す。

 二人きりの会談でライバル・福田赳夫氏が「今日は君がキリスト、私は神だ……君が辞めるということなれば、人材はいくらでもおる」と迫り、大平氏は「いや、それは福田さん、私に死ねということだ」とやり返す。だが激論のあと、大平氏は、当時官房副長官の加藤紘一氏に「次に誰を総理にしたらいいと思う」と「ランランと目を輝かせて」尋ねた。そして黙り込んだ加藤氏にこう告げた。

 「俺が総理を辞めたら、日本のために総理にすべきは福田さんだろう」と。

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筆者

曽我豪

曽我豪(そが・たけし) 朝日新聞編集委員(政治担当)

1962年生まれ。三重県出身。1985年、東大法卒、朝日新聞入社。熊本支局、西部本社社会部を経て89年政治部。総理番、平河ク・梶山幹事長番、野党ク・民社党担当、文部、建設・国土、労働省など担当。94年、週刊朝日。 オウム事件、阪神大震災、など。テリー伊藤氏の架空政治小説を担当(後に「永田町風雲録」として出版)。97年、政治部 金融国会で「政策新人類」を造語。2000年、月刊誌「論座」副編集長。01年 政治部 小泉政権誕生に遭遇。05年、政治部デスク。07年、編集局編集委員(政治担当)。11年、政治部長。14年、編集委員(政治担当)。15年 東大客員教授

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