後藤謙次
2010年08月14日
日韓併合100年にあたって閣議決定された首相談話はなぜか心に響いてこない。「首相談話」といいながら菅直人首相の意思がほとんど感じられないからではないか。そこが戦後50年の「村山談話」(1995年)との決定的な違いだろう。
村山談話の取りまとめに奔走した野坂浩賢官房長官(当時)は「(村山富市首相は)戦後50年の節目に強い言葉で気持ちを表したかった」と村山首相の心境を代弁した。村山氏の決断の背景には過去の歴史的事実と戦争責任を自らの責任において明確化する強烈な使命感があった。
当時の村山内閣は「自社さ3党連立」の基盤の上に成立していた。今なお驚くのは内閣の顔ぶれだ。島村宜伸文相、平沼赳夫運輸相、江藤隆美総務庁長官、そして日本遺族会会長でもあった橋本龍太郎通産相。さらに自民党内には「談話は絶対に容認できない」とする勢力が存在した。にもかかわらず閣議では1人の反対もなく談話は了承された。むろん野坂官房長官らによる十分な事前説明、根回しがあったことはいうまでもないが、同時に自民党内にも野中広務氏ら談話決定に向けて積極的に動いた議員の力があったことも大きかった。
しかし、何よりも村山談話にパワーを与えたのは村山氏自身の強い決意ではなかったか。野坂官房長官は後に「閣議で反対者が出れば即刻罷免する方針だった」ことを明らかにしている。村山政権は談話と並行して元従軍慰安婦への償い事業「女性のためのアジア平和国民基金」の設立など戦後の未処理問題にも着手した。この村山氏の一貫した姿勢、決意が談話にゆるぎない「命」を与え、その後の日本外交の大きな指針であり続けることになったと思われる。
これに対して「日韓併合100年」をめぐる談話の中に菅首相の個性を探し出すのは難しい。おそらく後にこの談話が村山談話のように「菅談話」と呼ばれることはないのではないか。それほど菅首相の存在感は薄かった。各紙の報道も仙谷由人官房長官主導によるものとの記述が目についた。
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