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表現の自由か、他者への配慮か:ドイツから見た「コーラン焼却計画事件」

川村陶子

川村陶子 川村陶子(成蹊大学文学部准教授)

 米国における牧師のコーラン焼却計画とそれをめぐる対応は、表現の自由と他者への配慮という二つの課題の間でのバランスの難しさを物語っている。この「事件」のはらむ複雑な問題に迫るには、コーラン焼却計画を立ち上げたテリー・ジョーンズ牧師が、米国とドイツという、言論・表現の自由のあり方に対して異なる姿勢をもつ二つの社会の間を移動していたことをよく吟味する必要があるだろう。

 ジョーンズ牧師は、1980年代から2008年まで西ドイツに在住し、ホテルマネジャーから転職してケルンで福音派教会を率いていた。ケルンはドイツの大都市の中でもムスリム系移民が多く、モスク建設計画中止を求める市民団体が結成されるなど、イスラーム嫌悪が社会問題として表面化している土地である。ジョーンズ牧師の教会は、ケルンでもとくにトルコ系住民の多い地区カルクに位置していた。

 ジョーンズ牧師がドイツに住んでいたのは、ちょうど同国で外国人・移民・国籍関連の法改正が進み、ドイツが名実ともに移民国へと変わっていった時期である。1990年代から2000年代半ばまでの時期には、移民受け入れ制度が整備される一方、外国系住民、とくにトルコ人などの非ヨーロッパ系・ムスリム系の人びとがマジョリティ社会と隔絶した「平行社会」を形成し、それが犯罪や家庭内暴力、過激イスラーム主義の温床になっていることが問題化した。9・11テロ実行犯がハンブルクのムスリム・コミュニティでリクルートされたことが明らかになり、ムスリム系移民への「寛容」は危険だと主張する書物がベストセラーにもなった。隣国オランダではイスラームに批判的な内容のドキュメンタリー映画を制作した監督が暗殺され、その反動でモスクが襲撃されるなど社会に亀裂が走り、多数のムスリム系移民を抱えるドイツでも衝撃と不安が広がった。

 ジョーンズ牧師がどのような経緯で反イスラーム的見解を抱くに至ったか、その詳細は明らかでない。だが、彼とともにフロリダに移住し、牧師として同じ教会に勤務する息子は、「我々のイスラームに対する行動はドイツで始まった」と述べている。また、ドイツ在住の娘によれば、ジョーンズ牧師はドイツを離れる少し前頃から、「イスラームが優勢になってきている現状を許すわけにはいかない」と言い出したという。ジョーンズ牧師の思想の過激化に、上述したドイツの社会状況が影響していたことは間違いないだろう。

 しかし、ジョーンズ牧師がそのままドイツにいたら、教会でコーランを焼却する計画を立てることはなかったと考えられる。より正確にいえば、そのような行動は起こせなかったであろう。ナチスの記憶が残るドイツでは、特定の人種や文化・宗教、とくにマイノリティのそれを侮辱する発言や行動は、法律と社会的規律によって厳しく制限されている。また、聖典はもちろんのこと、本を焼くという行為一般も、第三帝国において「反ドイツ的」書物が焚書されたトラウマと結びついており、タブー視されている。現代のドイツは、民主主義の安定とマイノリティへの配慮のために言論・表現の自由が制限される社会である。公職や指導的地位にある者がタブーを破った場合は、社会的制裁を免れない。

 ジョーンズ牧師がドイツを去ったのは、教会の不正会計が明らかになり、ケルンの教会信者たちに追放されたからだという。しかし、反イスラーム的思想を過激化させ、その思想を行動の形で社会的に表明したい者にとっては、ドイツよりも米国の方がずっと活動しやすい環境であった。米国では、憲法修正第1条において、「信教上の自由な行為」や言論、出版、集会の自由が最大限に保障されている。行為や表現の内容が攻撃的とみなされても、それに政府が介入することは難しい。国旗を焼くなどの象徴的行為も容認され、白人至上主義者が十字架を燃やすデモンストレーションですら、黒人の家に行って燃やすなどの例外的なケースを除いて止めることはできないという。事実、オバマ大統領はジョーンズ牧師にコーラン焼却をやめるよう要請したが、実力で介入することはなかった。

 ジョーンズ牧師の「事件」の経緯をみると、今日の世界では、他者への配慮を優先して表現の自由に一定の制限を加える社会の方が、他者に対して攻撃的な表現にも自由を認める社会に比べ、異文化の共存により適しているようにも思える。しかし、現実はそう簡単ではない。

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