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比嘉元名護市長の進退に学ぶ政治家の覚悟と決断

後藤謙次

後藤謙次 後藤謙次(フリーの政治コラムニスト、共同通信客員論説委員)

 義理(じり)んむすからん

 ありん捨ららん

 思案てる橋の

 渡りぐりしや

 1997年12月24日、橋本龍太郎首相を訪ねた比嘉鉄也名護市長(いずれも当時)は、普天間飛行場を移設するための海上ヘリ基地の受け入れを伝えると同時に、市長の辞任を表明した。

 その比嘉は、思い悩んだ心境を沖縄に伝わる歌に託した。

 比嘉市長の辞任によって事態が大きく動く。しかし、その後は米軍再編問題も絡んで紆余曲折の経過をたどった。さらに鳩山由紀夫前首相の「最低でも県外」の発言以降、事態はさらに混乱。今年に入ってから実施された名護市長選、名護市議選のいずれもが受け入れ反対派が勝利を収めている。11月28日に行われる沖縄県知事選を経ても、この流れを劇的に変える状況は見えてこない。ましてや参院選に続き民主党が候補擁立を見送ったことは、普天間問題解決に向け、政権与党として「やる気なし」と受け取られても仕方がない。

 尖閣諸島沖の漁船衝突事件に端を発した日中関係の悪化、北方領土問題をめぐるロシアの新たな動きなど、日本を取り巻く安全保障環境は激変した。国民世論を含めて日米同盟強化への流れが加速していることも、事態をより複雑にしている。

 しかし、現状固定は、最優先である普天間基地周辺住民の危険除去を反故にすることでしかない。鳩山前首相に「言葉の軽さ」の問題があったのは事実だが、少なくとも事態を動かそうとした熱意はあった。そのヒントが冒頭の比嘉市長の政治決断の中に隠されているのではないか。つまり

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