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【AAN第13回朝日アジアフェロー・フォーラム】インドへの道――われわれにとってインドとは何か

WEBRONZA編集部×AAN(朝日新聞アジアネットワーク)提携

■(1)日印関係とアジア

ブリッジ・タンカ(Brij Tankha) インド・デリー大学教授

交流の規模がやっと大きくなってきた

【司会(藤原帰一・東大教授)】 皆様、今晩は。本日のタイトルは、「インドへの道」。フォスターの小説みたいですが、このタイトルで、インドについて考えるセッションを企画いたしました。

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 申し上げますが、「アジアフェロー・フォーラム」といっても、アジアというとき、実は大半が中国。その次に韓国があって、その次はないんじゃないかなというくらい、企画が北東アジアに偏っておりました。実際、本日お越しいただいた方はそれほど多くありません。インドの企画では人数がこうなるという教訓です。念のために言いますが、これは朝日新聞社の問題ではありません。朝日から多くの皆さんがおいでになったのに、フェローの皆さんの出席率が低いからです。

 これは嘆かわしいと思います。「われわれにとってインドとは何か」というタイトルにしても、いつもはインドのことをろくに考えてない証拠ですね。そして、関心がようやく向かってきたのもたまたま経済成長が著しくなってきたから、今度はインドにでも投資するかという理由。いかにも了見が狭い見方です。

 でも、今日は違う。本日お願いしました報告者3名は、こんな狭い見方ではなく、インドについていろいろな視点から考えてこられたみなさんです。

 最初にお話しいただきますブリッジ・タンカさん。タンカさんはもう日本でも多くの方がご存じでしょうが、日印関係の現場に立って、「インドで日本について語り、日本ではインドについて語らされる」という苦しい立場に、過去30年にわたって身を置かれてきた。日本とインドの両方に通じた、文字通りのかけ橋のような方です。

 続いてお話しいただきますのは小川忠さん。いまは国際交流基金の日本研究・知的交流部長として日米の文化交流に関するお仕事に携わっていらっしゃいますが、実は国際交流基金のアジアに関する事業の中心で活躍された方です。インドネシアにも、またインドにも駐在され、インドのヒンドゥー・ファンダメンタリズムを中心とした『原理主義とは何か』(中公新書)という、非常に優れた、しかもタイムリーな本を発表されました。

 3人目は、インド政治がご専門の、竹中千春さん。竹中さんはインド研究を続けてきた立教大学の先生で、そして、つい最近、『盗賊のインド史』という本を書き上げたばかりで、まもなく有志舎から発売されます。タイトルから見ても、ビジネスチャンスとしてのインドという視点とはかなり違った視点になりますね。

 先生方のお話をいただく前に、一つご注意を申し上げます。このセッションでのご発言はオン・ザ・レコードです。お話の内容は、編集の上、インターネットのウェブサイトに掲載する予定でして、発言された皆様には原稿をご検討いただきますが、基本的にはオン・ザ・レコードでのセッションであることをお断りいたします。

 時間配分は、タンカ先生が20分、小川さん15分、竹中さん15分ということで進めたいと思います。では、最初にタンカ先生、お願いいたします。

でも、アジアはもっと広いです。どう見ても

【ブリッジ・タンカさん=デリー大学教授(日本近代史)】 どうもありがとうございます。紹介されたように、私の専門は日本近代の歴史です。でも、時々インドのことも話しているから、だんだん「インドの研究者にもなろうかな」と思っているところでもあります。

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 私は70年代の半ばに最初に日本に来たんですけれど、その後、インドと日本の関係は大分変わってきましたが、まだまだ規模では、思うほど変わってないという気持ちもあります。

 今日の話として、私はアジアから考えたいんです。

 アジアを考えるとき、例えば60、70、80年代だったら、基本的にみんな日本の経済成長を中心にアジアを考えていました。そして、中国の改革以降の80年代以降、中国の経済成長が中心になってきました。

 でも、アジアはもっと広いです。どう見ても。

 旧ソ連とロシアがあります。また、中央アジアと西アジア。インドの視点から見ると、東南アジア、東アジアと西アジアも重要です。今の世界の歴史から見ると、経済の変化はもちろん重要な一つの特徴です。アジアの国々の経済成長が強くなっていること。しかし、片方で西アジア、つまりイランや中央アジアにかなり革命的な変化も起こっているんです。経済だけではなく、やはり社会的な変化を含めて。アジアを考えるとき、あるいは、日印関係を考えるとき、その両方を考えるべきだと思います。

 インドから考えると、1947年の独立以降、60、70年代はソ連との政治的な関係が強かったです。例えば学生や民間の交流では、やはりアメリカが重要でした。アメリカとかイギリス。でも、ソ連に行った学生もかなり多かったんです。それは、ソ連が崩壊するまで、90年代まで、かなり多くのインドの学生が留学して、特に医学や自然科学、技術の研究をしました。まだ続いていますが、もちろん、数は減ってきています。

 もう一つ。60年代、または独立から恐らく80年代まで、アジアの中の交流はかなり制限されていました。インドの場合は外国に行く予算がかなり低かった。あまり自由に行けないし、中国との関係が悪くなって、60年代以降、交流はほとんどわずかで限られていました。

 しかし、80年代から、インドと中国の交流は増えてきました。インドと西アジアは60、70年代からすごく増えました。

 日本との交流は80年代の半ばから、学生ではなく、企業関係が増えました。そうすると、インドの公務員とか新聞関係とか企業関係の人がよく日本に来るようになった。また、オーストラリアとの関係も、特にインドの留学生がアメリカやイギリスよりオーストラリアに行くようになった。もちろん、中国の企業もインドに入るようになってきた。

 独立以降、初めて、アジアの交流の規模がかなり大きくなって、その中でお互いの知識が増えていったと思います。インドの場合は、60、70年代、多分80年代にも、例えば新聞を見ても日本の情報はほとんどなかったと思います。でも、最近はあらゆるところに、中国の情報、あるいは日本の情報が出てきています。

天心とタゴールの関係:大正時代までインドのイメージは強かった

 日本とインドの関係を考えるとき、日本のイメージとして私が理解していることは、私は歴史家だからそこから始まるのですが、幕末から大正時代まで、大正時代あたりまで、インドのイメージは日本の知識人に大変強かったし、日本の教科書にインドがよく取りあげられていました。

 一つはインドが植民地にされていたから、その植民地の危険性が重点でした。だから、幕末から中国で書かれた本、あるいは、ヨーロッパで書かれた本がだんだん日本で翻訳されて、そこで、イギリスのインド政策が注目されたんです。特に明治初期から末期までの教科書を見ると、大分日本にインドのことが教えられたんです。

 その環境から、岡倉天心とタゴールの関係ができてきたと思うんです。それは美術とか仏教を中心にして、一つの何か西洋というか西洋文明に対するいろいろな試みでした。

 当時は岡倉だけでなく、例えばこの近くの築地本願寺を設計した建築家の伊東忠太は、インドへ行って、新しい建築の言葉、スタイルをつくろうとしていたんです。アジア的表現を探しました。

 あるいは、西本願寺の大谷光瑞は中央アジアに探検隊を送って仏教のルーツをたどろうとして、いろいろ研究して、インドにも行って、中央アジアだけじゃなくて、もっと広い意味でアジアを考えていったわけです。彼は仏教の立場に立っていた人でしたけれど、近代的な考え方もあったんです。だから、宗教だけじゃなくて、やはりいろんな企業のことや経済を検討して、彼の弟子がつくった工場を見にトルコまで行って調べています。

 また、インド側でもよく知られたチャンドラ・ボースとインド国民軍(INA)の話があります。そういうインドの独立運動家が日本に来て、活動していたんですね。

 そういうつながりは、日露戦争以降、だんだん薄くなって消えていったんです。

ソ連かスウェーデンが選択肢:インドが戦闘機を買う場合

 80年代以降、特に2000年以降、そういう可能性がまたもう一度見えていると思います。交流のベースがだんだん厚くなってきた。その上に、知識もだんだん増えてきています。まだ欠点もありますが、日本とインドの関係が希望を持つような状態になっている。

 インドから今のアジアを考えると、ロシアとの関係はまだ重要だと思います。90年代にはいろいろな問題があって、ソ連時代からロシアにかけて経済はかなり乱れていたし、両国関係もいろいろ問題があったんですけれど、だんだん整理されてきました。

 例えば今度、インドは戦闘機を買う予定です、アメリカが売りたいと思っており、米印関係もよくなっているのに、インドは戦闘機を恐らくスウェーデンかロシアから買うとみられています。来年までに決まります。

 それはソ連かスウェーデンから戦闘機を買ったら、値段はもっと安いし、アメリカよりもっと技術移転が認められると考えるのです。アメリカはあまりそれをしない。日本は次期戦闘機(FX)をアメリカから買うと報道されています。100億ドルで日本は40機か50機の戦闘機を買うつもりです。インドは同じ値段で126機の戦闘機をロシアから買う予定です。だから、インドと日本の外交を考えるとき、交渉のやり方にちょっと差があると思うんです。

 もう一つは、政治的、経済的にもロシアや中国との関係はトラック2でした。88年頃から私のいたシンクタンクを中心に、知識人や外交官レベルの交流があった。当時のロシア駐在のインド大使が活発だった。今、外務省レベルで話が続いているんです。ロシアの場合は、やはりイラン問題やタリバンの問題でインド政府とかなり共通な利害があると思うんです。

中国への対抗軸としての日本/グローバルな枠組で日印交流を

 中国との関係では二つの問題があります。経済的には順調に伸びているんですけれど、2年前からその経済、企業関係にも少し問題が出てきました。

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 大きな問題は、2007年から北東のアルナチャルプラデシュ州の領有権を中国が主張している問題です。飛行機が国境を超えたりするなど、2006、7年はかなり問題でした。今は少し落ち着いていますが、インドの政府機関の人が中国に行くとき、ビザがもらえないから行けないとか、そういうビザの問題があります。

 もう一つは、やはり中国の海軍政策です。インド洋各地で港をつくったりするなど。だから、インドは今ソ連から潜水艦を買う話をしているらしいのです。

 インドとアメリカとの関係は原子力協力合意の後、大分よくなりました。オバマ大統領は就任直後は、そんなに強くインドを注目していないように見えていたんです。

 オバマ米大統領は11月にインドを訪問する予定です。新聞によると、再処理についての合意などの協定にサインする予定ですが、事故についての責任問題などの問題は残っており、調印されるかどうか注目されています。

 さらに対アフガニスタン政策で、インド政府はアメリカの「よいタリバン」「悪いタリバン」と分けるやり方に賛成ではありません。それはいろんなテロの問題とつながってくるからです。

 そうした情勢で、これからインドと日本の関係が、インド政府側から見ると重要になってきて、だから、この間、経済連携協定(EPA)、自由貿易協定(FTA)の交渉が終わって、今度サインされるかもしれません。それができると、日本の企業がもっとインドに入るかもしない。特に自動車部品とかジェネリック医薬品の場合はかなり重要になると思うんです。例えば日本の会社がインドのランバクシー社など製薬会社を買っていたし、インドのザイダスグループなどが日本の会社を買うなど、そういう交流が増えると思います。

 韓国とは1年か2年前にそういうFTAをつくっていたから、もっと前に行っています。

 インドがFTAをつくる理由は、経済交流だけじゃなくて、多分政治的な側面を持っていると思うんです。今の中国の事情などを考えると、やはり日本とインドの関係を強くしたいんです。

 私は外交政策は専門ではないけれど、これからの世界にはいろんな地域的な、あるいは、グローバルな問題があるから、インドと日本の交流や関係が、二国間だけじゃなくて、グローバルの枠に機能しなければいけないと思います。それがすごく一番重要なことです。

 そういう関係を支えるために、お互いに交流、知識を増やさなければいけない。それを増やすためには、文化交流、学生の交流が重要です。日本の大学では、ほとんどインドが教えられてない。社会科学の科目を見ると、インドの歴史とか経済は、ほとんど教えられていません。

 日本の大学では、どこへ行っても、ヨーロッパとかアメリカなど外国人の先生がたくさんいるし、韓国、中国の先生も増えてきました。でも、インド人はほとんど見えない。移民政策の問題もあるのかもしれませんが、やはりそれを考えなければいけないと私は思っています。

【司会(藤原帰一・東大教授)】 タンカ先生、ありがとうございました。インドと日本の関係を、インドとほかの国、ロシア、中国、アメリカなどとの関係を踏まえながら、長いパースペクティブの中で見てくださいました。