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政策立案の「二兎」を追った代償

櫻田淳

櫻田淳 東洋学園大学教授

 磯田道史(歴史学者)が著した『武士の家計簿』(新潮新書)は、興味深い書である。この書は、代々、加賀藩御算用役として藩財政を支えた武士の幕末と維新の軌跡を描いたものであり、今冬に公開される森田芳光監督の映画の原作となっている。

 この書で興味深いのは、件の加賀藩士家九代目が、維新の折、大村益次郎の知遇を得て、新政府軍の「ロジスティックス」を担った経緯である。幕末・維新期の志士の大勢は、政論には長けていたかもしれないけれども、軍隊や財政を運営する「実務」には不得手であった。それ故にこそ、軍隊の組織や運用に必要な経理の技能に長けた件の加賀藩士のような人材は、重用されたのである。

 『武士の家計簿』に描かれた加賀藩士家九代目に限らず、御一新以後の新政府の「実務」を担ったのは、幕藩体制以来の諸藩の「テクノクラート」層に他ならなかった。たとえば、大久保利通、伊藤博文の両内務卿時代の内務省には、諸藩から人材が集められた。瀧廉太郎(作曲家)の父親である瀧弘吉もまた、そうした内務省に出仕した旧日出藩士であったのである。ともかく、薩長両藩出身者が幅を利かせたという印象が強い明治新政府の執政の実相は、このようなものである。幕藩体制時代と明治時代は、完全に断絶していたわけではない。

 こうした経緯は、鳩山由紀夫、菅直人の民主党内閣の「迷走」に照らし合わせるとき、誠に示唆的である。

 そもそも、政策の立案と遂行に際しては、「何を進めるか」と「どのように進めるか」は、別の範疇に属する議論である。「何を進めるか」は、大概、「マニフェスト」(政権公約)に提示できる議論である。昨夏の衆議院議員選挙に際して、民主党が発表した「マニフェスト」に列挙された事柄は、子ども手当の創設や農家戸別保障制度の創設を初めとして、この「何を」に属する議論である。ただし、「どのように進めるか」という議論をあらかじめ示すことは、率直に難しい。そこでは、議員ひとりひとりの識見や経験、利害関係者との調整の如何、世論の理解、さらには官僚層との関係といった様々な要件が複雑に作用する。学者やシンクタンクの研究者は、「何を進めるか」には関わることができても、この「どのように進めるか」には、本来は責任を持てない。それは、政治家が第一の責任を引き受けるべき「実践」の議論なのである。

 政治上の「現実主義」の観点からすれば、この「何を」よりも「どのように」の方が重視される。民主党は、政権を担当した経験や実績を持たないがゆえに、この「どのように」ということには、細心の注意が払われてしかるべきであった。実際には、民主党内閣は、「政治主導」の名の下に、この「どのように」の側面で、自民党主導内閣時代の流儀を覆す方向に走った。政務三役による意志決定や事務次官会議の廃止は、その事例である。

 しかし、「何を」という政策の中身はともかくとして、「どのように」という政策遂行の手順において生煮えの変更を加えることは、相当な程度の混乱を招くものであるし、そうした混乱は、そのまま「政権担当能力」への悪しき評価に直截に結び付く。しかも、一般国民は、

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