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【写真特集つき】国境の向こうも見つめたい

藤原秀人

藤原秀人 フリージャーナリスト

拡大「白樺」は奄美大島の西約460キロ沖にある。2010年12月20日、本社機から山本裕之撮影(写真すべて)
拡大後方は中国船籍の作業船

 デビッドが飛び込んだのは、このあたりだったのか。

 昨年の暮れ、本社ジェット機の小さな窓から東シナ海に浮かぶ尖閣諸島を見つめながら、しみじみ、そんな思いにひたった。

 1996年9月26日、尖閣諸島の領有権をめぐり日本に抗議するため、周辺海域を航行していた香港の貨物船「保釣号」から5人の活動家が海に飛び込んだ。ただひとり死亡したのが、当時45歳のデビッドだった。

 デビッド・チャン(陳毓祥)氏は香港大学在学中から釣魚島(中国では尖閣諸島をこう呼ぶ)防衛運動に深くかかわっていた。彼とは私が香港在勤中に知り合った。熱い愛国者ではあったが、いつも冷静な話しぶりで我々日本人に接していて、無謀なことをするようには見えなかった。それだけに、その死には驚いた。

 東ナ海を見に行ったのは、昨年も日中間の焦点となった尖閣諸島の問題などを考え直す参考にするためだったが、知人が無人島のために尊い命を捧げた理由の一端も知りたかった。

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 羽田を早朝に出て奄美で給油した後、まず東シナ海のガス田「白樺」に向かった。中国側は「春暁」と呼んでいる。途中、かすかに見えた「樫」が「天外天」というように、ガス田の中国名称はすべて浙江省の名勝地「西湖」にちなむ。

 映像では何度も見たことのある白樺の作業台は、予想以上に大きく感じた。最も高いところは海面から50メートルくらいか。コンテナを積み重ねたような建家の上にはヘリポートがある。作業台から1キロほど離れた海上に、これも記憶にある作業船が見えた。

拡大「白樺」は中国名「春暁」
拡大中国人従業員の姿も見えた
拡大中国の国旗がたなびく

 社機は旋回しながら作業台に接近した。中国の五星紅旗がたなびいている。オレンジ色の作業着を着た乗組員の姿が見えた。同乗の山本裕之・写真記者のカメラからは、ヘリポートの上で表情を変えずにこちらを見つめる乗組員が4、5人。作業台のあちこちにも乗組員がいた。「春暁」の看板も見えた。

 彼らが実際にどんな作業をしているのか。それは分からなかった。だが、巨大な作業台には中国の存在感を感じさせるのに十分な威圧感があった。この白樺では日本側も出資することが合意されていた。その交渉が中断する原因となったのが、去年9月の尖閣諸島沖で起きた中国漁船衝突事件だった。

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拡大尖閣・魚釣島

 白樺から南へ。雲の切れ間から、これも画像では見慣れた尖閣諸島の魚釣島が見えてきた。面積4平方キロだが、もっと小さく感じた。島の入り江付近に、日本の活動家がつくった小さな灯台が見える。一方、日本の政治団体が放したことで繁殖したと伝えられるヤギの群れは見えなかった。

拡大魚釣島の灯台(上)と船着き場(手前)

 海上保安庁の巡視船が常時、尖閣諸島周辺を警戒しているといわれるが、たまたまか見なかった。中国の船も見えなかった。この、のどかな無人島の沖で、日中関係を壊しそうになった衝突事件が昨年起きたのだった。

 尖閣諸島の久場島沖の東シナ海で9月7日、中国のトロール漁船「閩晋漁5179」(166トン)が石垣海上保安部の巡視船に衝突した。同保安部は翌未明、中国人船長を公務執行妨害の疑いで逮捕した。

 デビッドが死亡した時もそうだったが、尖閣問題は日中関係を不安定にさせる、恐ろしい時限爆弾のように時折浮上する。今度はこれまでにない衝撃が両国に走った。その後の経緯には触れないが、日中関係は完全修復まで至らないまま年を越した。

 経済発展の速度以上に増強が進むように見える中国の海軍力。軍だけでなく、漁業など資源を求める海上活動もおう盛だ。そんな中国とこれからも付き合わなければならない。

拡大与那国町役場
拡大外間守吉・町長

 その付き合い方のひとつとして、日本政府は年末に南西諸島防衛強化を盛り込んだ新たな「防衛計画の大綱」を発表した。

 それを歓迎する人が、日本の最西端に位置する与那国島にいた。

 外間守吉・与那国町長(61)。「私は社会党の議員だった。沖縄基地返還闘争にも加わった。それが今、自衛隊誘致に乗り出したのは、過疎対策でしかない。病院も高校もない。雇用もない。自衛隊が来れば医者も来るだろう」

 自衛隊誘致に反対する人もいる。

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筆者

藤原秀人

藤原秀人(ふじわら・ひでひと) フリージャーナリスト

1980年、朝日新聞社入社。外報部員、香港特派員、北京特派員、論説委員などを経て、2004年から2008年まで中国総局長。その後、中国・アジア担当の編集委員、新潟総局長などを経て、2019年8月退社。2000年から1年間、ハーバード大学国際問題研究所客員研究員。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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