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政権交代可能な時代に「中立性」は存在するのか?

鈴木崇弘

鈴木崇弘 城西国際大学客員教授(政治学)

 日本では、政策や行政に関して、一般的に「中立性」が重視される。ほとんどの国民もそう考えている。しかしながら、政策に関して、果たして「中立性」は存在しうるのだろうか。

 中立性とは、特定の利益や集団に偏ることなく不偏不党を意味する概念だろう。

 ところが、政策は、何らかの価値観に基づいて資源の配分をおこなうことであり、どんなに公平性に気を配ろうが、資源が無限に存在しない以上は、何らかの政治的価値に基づかない限り、つくることができないものである(注1)。それは、極端ないい方をすれば、ある特定の政策をつくり、それを執行するということは、中立ではないことを意味する。

 2009年の総選挙において、日本である意味「政権交代」が実現した。今後、また別の政権交代が起こりうることもありうる。政権交代は、本来「政策交代」を意味するのであり、政策や政策執行の仕方が異なる政治的価値観で基づいてつくられるようになることを意味する。これは、政権与党が変わることで、行政が実施する政策も別の価値に依拠して形成されるようになり、もはや政治価値フリーではないこと、いわゆる「中立性」に基づいていないようになること(注2)を意味する。

 ここにおいては、政治や政策に、直接あるいは間接にかかわらず何らかの形で関わる人や組織は、行政をも含めて、「中立性」があるとはいえない。政治や政策にコミットするということは、そういうことだ。

 筆者は、「中立性」が良くないということを批判しているのではない。むしろ、日本では、これまで「中立性」という美名の下で、政治や政策を誤魔化してきた(注3)ことを、問題にしたいのだ。現に、少なくとも、政権交代が起き、今後も起こりうるなかで、「中立性」という言葉は、政治や政策あるいはそれらにかかわる場合、その使用を止めるべきではないかと考えている。

 政権交代可能な社会で重要なのは、「中立性」ではなくむしろ「独立性」である。独立性とは、組織なり個人なりが自分の政治的価値を決め、それに基づいて判断し、行動するものである。この場合、その組織や個人は、政治にかかわらないのではない。むしろ、ある特定政党と政治価値観が同じ、あるいは近ければそれをサポートすることもあれば、政策ごとに自分に立場が近い政党が異なる場合、個別の政策ごとに支持政党を変えることもありうるのである。

 現在、そして今後の日本政治の可能性を考えた場合、この「独立性」は、社会における多様性を生みだし、担保する源になるであろう。以前に評判になった書籍『「みんなの意見」は案外正しい』(注4)に示されているように、集団そして社会が賢くあるために欠かせないのは、この多様性と独立性である。つまり、さまざまな政治的価値観をもった人や個人が、独立した自己の価値観に基づき、考え、行動することで、社会において、新しいアイデアやイノベーションが生まれ、それらが切磋琢磨し、より良いものになっていく。そこでは、社会の多元性、多様性が政治的に反映され、新たな政治や政策が生まれる。そして、そうした独立した多様性があることで、社会全体にもそれが反映され、最終的に「公平性」が担保され、ある意味の社会的な「中立性」も確保できることになる。そして、それは、日本をより民主主義的な社会にしていく原動力になっていくであろう。

 「独立性」、ひいては「多様性」こそ、これからの日本政治のキーワードだ。

(注1)

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筆者

鈴木崇弘

鈴木崇弘(すずき・たかひろ) 城西国際大学客員教授(政治学)

城西国際大学大学院国際アドミニストレーション研究科客員教授。1954年生まれ。東京大学法学部卒。マラヤ大学、イースト・ウエスト・センターやハワイ大学大学院等に留学。東京財団の設立に関わり、同財団研究事業部長、大阪大学特任教授、自民党の政策研究機関「シンクタンク2005・日本」の設立に関わり、同機関理事・事務局長などを経て現職。中央大学大学院公共政策研究科客員教授。著書に『日本に「民主主義」を起業する――自伝的シンクタンク論』『シチズン・リテラシー』『僕らの社会のつくり方――10代から見る憲法』など。

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