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「実力証明」を放棄した民主党の行方

櫻田淳

櫻田淳 東洋学園大学教授

 潮智史(朝日新聞記者)がWEBRONZA(ウェブロンザ)上に執筆した「実力証明を急げ長友に与えられた時間は長くはない」(2月16日配信)には、セリエA(サッカー・イタリア1部リーグ)のチェゼーナからインテル・ミラノに移籍した長友佑都を評して、「長友のインテルでの成功の鍵は時間との競争にあるように思う。いかに短い期間で出番を重ね、やはり短い出場時間のなかで質の高いプレーを見せられるか」という記述がある。

 一昨年夏の「政権交代」以降、民主党内閣に要請されたのも、潮の言葉にある「実力証明」に他ならなかった。民主党は、初めて政権を担った政党として、「何をするか」よりも、「何を、どこまで出来るか」を世に証明しなければならなかったのである。実際には、民主党は、この一年半の時間の中で、その「実力証明」には悉く失敗したようである。在沖米軍普天間基地移設案件に際して、「抑止力は方便である」という鳩山由紀夫の発言が象徴するように、民主党内閣下の対外関係は、「安定」と「可測性」を損ねる一方である。また、「政権交代」以前に子ども手当の具体的な額を聞いて「びっくりした」と告白した菅直人(内閣総理大臣)の姿は、菅における当事者意識の乏しさと民主党における政策立案過程の杜撰さを物語る。そうした言動の一つ一つが民主党からの人心離反を促している。しかも、自らの党を取り巻く環境が険悪になっている最中ですら、党内抗争を自制できない議員が続出する民主党からは、党内が一致して何かを成し遂げようという空気を感じ取ることは、率直に難しい。

 振り返れば、往時の自民党もまた、党内抗争の激しい政党であった。ただし、自民党党内抗争に関して確認されなければならないのは、それが予算案審議に係る1月から3月までの時期を避けていたという事実である。たとえば、自民党史の中でも最も激しかった抗争として語られる1979年の「四十日抗争」は、11月の大平正芳内閣発足に至る1カ月余りの風景である。自民党の最初の下野を招いた1993年の「55年体制崩壊」は、前年12月の竹下派分裂を端緒にして、3月以降の政治改革関連法案の提出と頓挫、6月の宮澤喜一内閣不信任案成立と新生党、新党さきがけ結党という経過を辿っている。国民生活が懸かる予算案審議には出来るだけ影響を及ぼさないという配慮が、そこでは働いていたのである。

 こうした最低限の配慮が示されないままに、予算案審議最中で党内抗争が噴出する民主党の現状は、確かに異様である。現下の党内抗争には、結局のところ次に挙げる二つの「愚策」と「無責任」が反映されている。第一に、菅や岡田克也(民主党幹事長)は、もし予算案審議を優先するのであれば、強制起訴された小沢一郎(元民主党代表)への党内処分を、予算案審議完了後まで棚上げにする対応も選択できたはずである。予算案審議最中に党内抗争を煽るがごとき菅や岡田の対応は、予算案審議に必要な党内結束の確保という観点からは、愚劣なものでしかなかったであろう。第二に、小沢に近いとされる衆議院議員十六人衆が院内独自会派を結成し、松木謙公(前農林水産政務官)が政府から去るという挙動は、政権に直接にせよ間接にせよ携わっている立場からすれば、無責任なものだと評さざるを得ない。菅や岡田を中心とする現執行部系議員にせよ小沢に近い反現執行部系議員にせよ、彼らは互いに自らの大義を語っているかもしれないけれども、実際には「実力証明」を求める国民の要請から乖離した彼らの姿勢こそが、相乗効果を生みながら民主党の失墜に手を貸しているのである。

 一方、小沢は、河村たかし(名古屋市長)との提携を

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