メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

若手官僚が霞が関を飛び出した:「青山社中」の理念と展望

朝比奈一郎(青山社中)&遠藤洋路(同)/聞き手:鈴木崇弘

 14年間、霞が関の改革に挑んだ経産省出身の朝比奈一郎氏と、文科省出身の遠藤洋路氏。二人は、「プロジェクトK(新しい霞ケ関を創る若手の会)」など内部からの改革に飽きたらず、昨年11月15日、新しい会社を立ち上げた。その名も「青山社中」。幕末・維新の精神で政治とダイレクトに結びつく政策作りを始めている。WEBRONZA(ウェブロンザ)執筆陣の一人でシンクタンク論や政策研究が専門の鈴木崇弘氏と、政治や政策のあるべき姿、今後の目標を語り合った。

◆   ◆   ◆

 【小見出し一覧】

 15年前の思いは変わっていない/忙しいのに政策の質が高まらない/仕事は充実していたが限界も見えた/専門家が政策をつくらないと世界と戦えない/局長や次官になっても改革は難しい/青山社中の理念は「協創」「小強」「真豊」/政治家のマニフェストづくりをビジネスに/政治が動かせれば自分が政治家にならなくてもいい/霞ケ関では得難かった現場の経験/目指すはパートタイム型、ネットワーク型のシンクタンク/日本の価値は「PEATH」にある/10年の付き合いだと思って霞ケ関に入ればいい(全4ページ、約2万字)

◆   ◆   ◆

朝比奈さん(右)と遠藤さん(左)。

 ■朝比奈一郎(あさひな・いちろう) 「青山社中」筆頭代表。1973年、東京都生まれ。東京大学法学部卒業。ハーバード大学行政大学院修了(修士)。経済産業省でエネルギー政策、インフラ輸出政策などを担当。「プロジェクトK」元代表。

 ■遠藤洋路(えんどう・ひろみち) 「青山社中」共同代表。1974年、高知県生まれ。東京大学法学部卒業。ハーバード大学行政大学院修了(修士)。文部科学省で生涯学習・社会教育政策、知的財産政策などを担当。「プロジェクトK」元理事。

 ■聞き手:鈴木崇弘(すずき・たかひろ) 城西国際大学大学院国際アドミニストレーション客員教授。1954年生まれ。東京大学法学部卒業。マラヤ大学、イースト・ウエスト・センターやハワイ大学大学院等に留学。東京財団研究事業部長、大阪大学特任教授、「シンクタンク2005・日本」事務局長などを経て現職。中央大学大学院客員教授も兼務。著書に『日本に「民主主義」を起業する―自伝的シンクタンク論』『シチズン・リテラシー』など。

左は聞き手の鈴木崇弘氏。

◇15年前の思いは変わっていない◇

鈴木 まだ新しい会社を立ち上げたばかりで、日々忙しい時間を過ごされていると思いますが、若手官僚だった朝比奈さんや遠藤さんが相当の決意を持って霞が関という組織の外に出て、「青山社中」という立場から日本を変えようと動き出したのを興味深く拝見しています。お二人が約15年前に官僚になった頃は、日本の官僚にはまだ権威があって期待感もあり、今とだいぶイメージが違ったと思います。ちょうどその頃から「官僚だけではダメだ」という意識が強くなり始めましたが、それと並行してお二人は「プロジェクトK」(2003年発足)という内部からの改革を志しました。そして今回、霞が関の外に出て、バージョンアップした日本改革の第二幕をやろうと動いておられます。

 まずは、お二人が官僚になった経緯、そして官僚としてお仕事する中で感じたこと、達成感や限界を感じたことなど、改革を志されたプロジェクトKまでのお話を伺いたいと思います。

朝比奈 鈴木先生のご紹介にもあったように、私たちが霞が関に入った頃は、まさに端境期でした。その昔は「日本は、政治は三流だけど官僚が一流だから持っている」と言われていたのに、今は「日本をダメにしているのは官僚だ」とまで言われています。汚職事件で逮捕されるような人もいるけれど官僚組織全体は基本的に立派だとされていたのが、「ダメな官僚組織にもたまにいい人がいる」という認識に180度変わりました。価値観が正反対に転換しつつある中、、当時、大学で公務員試験の勉強をしていたわけですが、元々公務員志望だった優秀な人たちが次々に、霞が関ではなく民間企業や研究者に進路を変えました。そうした風潮の中で私や遠藤はそれでも霞が関を目指した世代です。ちょうど薬害エイズ問題が論議を呼んでいて、官庁訪問中に厚労省前で抗議活動がされていたのを覚えています。そうした時代に「あえて中に入って、中から変えよう」という意識がありました。

 入省して色々な仕事を経験しましたが、例えば私は小泉改革の最中に内閣官房で特殊法人等改革を担当しました。163の法人について、総論では誰もが「必要な法人と不要な法人でメリハリをつける」と言うのですが、具体的に「不要」な法人をつぶそうとするとそれぞれ「必要です」という答えが利害関係者から返ってくる。当時はまだトップの決意が固く、道路公団など「先行7法人」といった重点改革が進んだが、トップが全法人を一つ一つしらみつぶしに検証できるはずもない。霞が関の自浄作用が働く仕組みが必要だと痛感しました。予算も機構・定員も総論では「メリハリをつける」というのに各論になると、みんなが納得するように例えば「各省10%一律カット」という結論になる。独法改革でも人件費と一般管理費を一律10%削減というのがオチでした。これで本当に日本は世界と競争できるのか。それぞれの担当分野で本当にいい政策を作って、世界と伍していけるのか。そうした思いをもとに「プロジェクトK」を立ち上げました。

 具体的な改革案を出して実現に努めたのですが、7年間やって成功したかと言われると五分五分だったと思います。確かに、7年前に「霞が関全体の司令塔が必要だ」と提言したときには「不可能だ」「既に内閣官房がある」などと言われましたが、民主党政権になって一応、「国家戦略室」という「器」ができました。公務員制度改革も、私たちが言い出した頃には影も形もありませんでしたが、自民党政権時に国家公務員制度改革基本法ができて国家公務員制度改革推進本部とその事務局ができました。私たちのメンバーも何人かですが登用してもらいました。では、それで十分だったかというと「器」に「魂」が入っていない。国家戦略室が典型ですね。霞が関の司令塔的な存在は、戦前の内閣資源局、戦後の安本(経済安定本部)、経企庁や国土庁のような部分的なものから最近の内閣官房や経済財政諮問会議まで「器」は色々ありました。しかし、仕組みや人員がきちんと位置づけられないと機能しないというのが歴史の教訓です。森内閣でできた経済財政諮問会議も、小泉首相が竹中平蔵さんを配置して用いたからそれなりに機能した。でも二人がいなくなったら、あっという間に存在感がなくなった。つまり、器だけ用意しても仕組みがなければ意味がない。恒久的な改革のための組織づくりが私たちの主張の一つでした。

 霞が関改革の第二幕として私たちが考えているのは、「この改革をもっと進めるにはどうすればいいのか」ということです。器に魂を入れる改革となると、日本全体の改革が必要だという文脈の中に霞が関改革を位置づけなければならない。私たちは小泉さん、安倍さん、福田さん、麻生さん、鳩山さん、菅さんと色々な政権に訴え続けてきましたが、改革の進み具合も、やはりトップがどれだけ国民の支持を集めているかによるところが大きい。霞が関の職員が霞が関改革を叫んでも、世の中から見ればパナソニックの社員がパナソニック改革を言っているようなものです。「頑張ってね」「応援するよ」という人もいるでしょうけれど、自分のこととして受け止める人はほとんどいなくて、単に「テレビが安くなったらラッキー」というだけの話です。でも、霞が関改革は日本の改革のために必要だとなれば話は違ってきます。「日本全体の改革」を前面に押し出さなければならないと考えました。

 元々、私たちは霞が関改革のためだけに霞が関に入ったわけではない。霞が関という場から日本や社会のためにいい政策を作りたいと思ったわけですから、「日本のために何かをしたい」という思いが原点にありました。私は退職の直前に、インフラ輸出の仕事をしていましたが、日本という重病人にとって、インフラを輸出できれば体に例えれば肺の病気は治るかもしれない。しかし、心臓病や胃腸の病気を併発しているのを治すことは難しい。でも本当は、病人の体全体のことを考えて治療薬を考えなければならない。そうした全体のために動きたいという思いもありました。ところが、例えば、鈴木先生も長年関わってきた政党の政策作りに役立つシンクタンク作りもいまだに進んでいません。ならば、大げさですが政党の代替機能を私たちが担うことができないか。そう考えました。

◇忙しいのに政策の質が高まらない◇

遠藤 私の場合も、霞が関に入った時の思いは朝比奈と共通しています。「今、日本のために何ができるか」を考えたくて官僚を目指しました。文部省の面接でも「こんなに役所が叩かれている時期になぜ入りたいの?」と聞かれて、「霞が関を変えたい」「自分たちの力で霞が関や日本を良くしたい」と答えた記憶があります。面接官にも聞かれましたし、入省後に上司にも言われました。「文部省の仕事を減らすために頑張ります」と言った覚えもありますが(笑)、要は最初から「霞が関を変える」という動機がありました。でも、実際に入ってみると「思った以上に」特に政策の質の面で非常にお粗末な状況でした。新人は当然、朝から晩までばたばたとコピーを取ったり電話したり資料を配ったりするのですが、先輩や上司が政策を一生懸命考えているか、日本の教育のために激論を交わしているかというと全くそんなことはない。昼間は国会で答弁しているし、夜は国会答弁を作っている。

朝比奈 その合間に弁当を食べている(笑)。

遠藤 そうそう。この人たちはいつ教育政策を考えているのか、と疑問に思い始めました。以前、私が担当した幼稚園関係の仕事で、非常に詳しく幼稚園のことを調べている資料が出てきました。それを見ると、昔は幼稚園の基準を作るのに、何年も時間をかけて、考え尽くして決めていたことがわかります。例えば、幼稚園の保育室の広さは何平方メートル以上じゃないといけないと決めるのに、子どもの平均身長は何センチで、子どもが両手を広げると何センチになって、8人で輪を作るとその直径が何センチ、その輪を三つ作るには広さは何平方メートルが必要だとか、正確な数字は忘れましたが、とにかく色々なことを考えて決めていた。

鈴木 トイレの大きさも決まっていますね。

遠藤 そうです。何人当たり小便器がいくつ、大便器がいくつというふうにトイレの便器の数も決めていた。給食の調理室の台の高さは何センチから何センチで、直径何センチの鍋がいくつ必要、など。昔は暇だったとも言えますが、とにかく時間の流れがそういうペースでした。それだけ調べて考える時間があった。でも、今は世の中が遥かにスピードアップしていて、素人が一から勉強して10年かけて政策を練り上げるような余裕はない。私たちのような法学部の卒業生は幼稚園教育の専門家でも何でもないわけで、そういう素人が朝から晩まで国会対応や雑用をしている。それで政策の質が担保されるのかというと、全くされていないという状況でした。それなのにめちゃくちゃ忙しい。仕事も深夜2時、3時、4時が当たり前で、昼間ずっと働いた後で夜中の2時から飲みに行ったりしていました。飲みに行ってまた帰ってきて仕事して朝になって一瞬だけ家に帰る。次の日もほとんど寝る間もなく出勤です。何とかしなければならないと思いましたが、個人が努力すれば解決する問題ではない。組織全体、霞が関全体の構造的な問題なので、それを変える必要がありました。朝比奈からプロジェクトKに誘われたのは、そうした時期でした。

 そうして7年やって、一部は実現しつつあります。つまり、「国家全体の戦略本部を作る」というインパクトのある提言は、形の上では国家戦略室として実現した。けれど、改革をもっと推し進めようと思うと、今までのやり方では難しそうだという感触がありました。例えば、もっと国家戦略室の権限を強めるために、人員配置をこうして、こんな機能を持たせた方がいい……といったテクニカルな議論は、それだけではメディアや世論にアピールするのは難しい。だから、今度は日本全体を見渡して、霞が関に限らない改革を、霞が関の内と外の両方の改革を訴えた方がいいと考え始めました。

 ところが、外の改革をやろうとしても、自分たちは国家公務員ですから政治的な中立性が求められます。例えば政治家に訴えて「日本の教育をこう変えてほしい」と勝手に提言するわけにはいかない。どうしてもやりたければ自分たちが霞が関の外に出るしかない。そして、プロジェクトKの残ったメンバーは引き続き霞が関の中から改革を進めればいい。そうやって内と外の両方から改革を訴えていこうと決めたのです。朝比奈はよく「日本人はリスクを取らない」と言っていましたが、ならばまず自分たちが役所から飛び出そうじゃないかと。役所で仕事をしていると「こんな会社があればいいのに」「この部分、誰かやらないかな」と思うことが多々ありました。誰かがやらないなら自分たちがやるしかない。外に出て自分たちで物事を進めていけるような立場になりたい。そう考えて「青山社中」を作りました。

◇仕事は充実していたが限界も見えた◇

鈴木 そうはいっても、役所での経験を振り返って、自分が担当したプロジェクトや事業で充実を感じたこともあったのではないかと思います。達成感があった仕事、役所の仕事が役に立ったと感じた経験があれば伺いたいと思います。

・・・ログインして読む
(残り:約15395文字/本文:約20937文字)