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ドイツ、脱原発への道(下)――情緒に流されない論議

三島憲一

三島憲一 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

 前回述べたように、元来はエリートでありながら、自分の信念を曲げない人々の活躍があってようやく運動が実り出したといえる。

 しかし、それが可能なのは、エリートの行路が多様に用意されている社会でもあるからである。役人として、会社員として正常な道を踏み外したら、あとは村八分、本人もそうしたはぐれ者意識にとらわれ、生活も難儀しかねない日本と異なって、有能な人ほど人生でいろいろな道に進むのがあたりまえの社会、ここに「本筋」という行路の決まっていない社会の強みがある。本省に入り、局長まで勤め上げ、あとは天下りで安定した晩年、といった人生設計は存在しない。

 また気づくのは、彼らのひとつひとつの発言や著作や論文の水準の高さである。調査研究、議論の組み立ては、ドイツの伝統というか、複雑な注もついて、きわめてしっかりしており、いい加減なアジ演説的反原発パンフレットでは、通用しない社会である。

 そして、こうした努力の中で、普通の市民でも、反原発運動ができるようになったことが大きい。昼間の会社つとめが終わってから地域の学習会に参加して、こうしたエリートたちの著作を論じあう。時にはそうした人たちを講演会に招く日常の努力である。ここにはもちろん、勤務は定刻に終わるという労使協約に依拠した生活が保証されている背景も重要である。

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