メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

北大HOPSマガジン 【北海道から何を発信するか】 知的一極集中を変えて、北海道に西鉄ライオンズのようなチームを作る

山口二郎(政治学)

 大震災と原発事故を教訓に、日本という国の姿を変えなければならないという主張は今や常識となりつつある。現状を厳しく反省する良心的な人々から、原発に依存したエネルギー大量消費の仕組みは国民自身が選択してきたという議論も聞こえる。しかし、政治学の観点から問題を考えるなら、民主主義の不足が福島第一原発の事故を引き起こしたと言わなければならない。

 リンカーンの古典的な定式によるならば、民主主義とは、人民のために(for)人民自身によって(by)統治を行う仕組みである。何が人民の利益になるかを人民自身が知ることはそう簡単な話ではない。だからこそ専門家、特に官僚が、国益や地域の利益を定義し、彼らの言う公共利益を増進する政策を立案、実施してきた。

 ウルリッヒ・ベックが早くから指摘しているように、そのこと自体は近代の宿命である。我々の「文明生活」は、様々な分野の専門家が半ば自立的に立案、追求する政策に依存している。しかし日本の場合、専門家の独善性と閉鎖性は突出しているように思える。官僚と専門家はおためごかしで、自分たちの利益を公共の看板の下で追求してきた。

 人民は、個別の政策問題に関しては所詮素人である。しかし、十分な情報を共有するならば人民自身が最終的な判断力を持つという信念がなければ、民主主義は成り立たないはずである。日本の場合、情報を専門家が独占し議論の空間を閉ざして、人民の判断能力を奪っておきながら、人民には判断能力がないという前提の上に専門家主導の政策形成が進められてきた。原発こそ、その典型例である。福島第一原発の事故という巨大な犠牲を待って、初めてその犯罪的とも言える現実が明らかになった。

 今の日本に必要なことは、政策的知の一極集中を解体し、多元的で開放的な政策論争を行えるように新しい、広い空間を作ることである。知の空間とは機能的な次元の話である。しかし、実体的な地理空間とも連動している話でもある。

 日本の近代化の過程で大学の世界も一極集中を前提として発展してきた。ピラミッドの頂点にある東京大学の学者は、役所の求めに応じていつでも政策形成に加わることが要請されてきた。しかもその場合の参加は、本当の専門知の提供ではなく、権威の付与を目的としていた。

 たとえば今回の原発事故について、想定外という言い訳を何度も聞いた。もちろんそれは恐ろしい事態を想定しようとしなかった怠慢に対する正当化なのだが。それにしても、日本の政策形成には恐ろしく無能な専門家が動員されていたことが明らかになった。動員される側も、自らの無能を自覚せず動員に応じたわけである。そして、そのような専門家を輩出したのが知のピラミッドの頂上部であった。多くの研究者、専門家が動員されながら、専門的学問の見地からは著しく質の低い政策しか産出されなかったという逆説は、このメカニズムから説明されると思う。

●札幌は批判的政治学の拠点

 学者が権力から自立するためには、空間的な距離感も必要なのではないかというのが、長年地方から政治を見た私の感想である。近くにいればこそ、官僚はそれこそ、検番から芸者を呼ぶように、首都の大学から学者を呼んだ。遠くにいれば、わざわざ呼ぶに値するかどうか、呼ぶ側が考えるはずである。

拡大北大キャンパス
 いわゆる先進国を見渡してみて、大学が首都にこれほど集中しているのは、日本だけの固有現象である。優れた大学の自由な知的空間は地域性と切り離せない。

 しかしながら、日本におけるこの10年ほどの大学改革は、大学と学問の欠陥を拡大する方向に動いてきた。民間企業における選択と集中をまねて、大学でも頂上の大学への資金の集中が続いた。また、役に立つ学問をせよという圧力が高まり、民間企業から金をもらって、企業が求める研究をすることがあたかも大学の使命であるかの如くに語られるようになった。

 地方の大学は地域性を生かした別のビジネスモデルを探すしかないはずなのだが、よせばいいのに ・・・ログインして読む
(残り:約632文字/本文:約2261文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。