聞き手=WEBRONZA編集部
2011年07月21日
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広田照幸(ひろた・てるゆき) 1959年、広島県生まれ。日本大学文理学部教授。専攻は教育社会学、教育史、社会史。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。南山大学助教授、東京大学教授を経て2006年10月から現職。97年『陸軍将校の教育社会史』でサントリー学芸賞受賞。著書に『日本人のしつけは衰退したか――「教育する家族」のゆくえ』『教育には何ができないか』『≪愛国心≫のゆくえ――教育基本法改正という問題』『教育不信と教育依存の時代』『格差・秩序不安と教育』『ヒューマニティーズ 教育学』など。
〔大震災と教育〕
――3月11日に大震災がありました。被災地の苦しみはまだ続いていますが、新しい社会づくり、国づくりについて、教育に期待される部分も大きいと思います。ポスト震災の教育は何ができるのか。気になります。
広田 いきなりちょっと困った質問ですね(苦笑)。被災地の教育復興に向けた措置はもちろん迅速で確実なものが必要ですけれども、それ自体は応急的なものにすぎない。トータルには、あまり変化は起きないともいえます。教育は、時間的射程が長く、実際にやっていることは地味で積み上げ的なものです。「地震を契機にある教科を新しく作る」といったことはまず起きない。
たとえば、震災を契機に、非常時のために必要な地域と学校の連携などを唱える向きもあるようです。あるいは、「非常時に備える教育」とか「地域と学校の関係を組み直す」といったふうに、思い思いに勝手な夢が語られているようにも思います。しかし、どこまで平常時の状態を見直すかという点は慎重に考えないといけません。
心配なのは、ここぞとばかりに、例外状態をむやみに教訓化したり、非常時を基準にしてシステムを作り直そうとしたりする教育界の軽率な動きです。学校教育という地味な積み上げの活動の中に、例外的なケースを想定したコンテンツが増殖してしまうと、逆に教育システムとしては危ないものを含んでしまう、と私は考えています。
――どういうことですか。
広田 たとえば、震災を契機に、「ひとつになろう」といった掛け声が日本全体に溢れました。危機的事態の時はまとまるべきだと思うけれど、普段から「ひとつになろう」という教育を徹底してやったら、それこそ変な社会になってしまう。コミュニティの同質化の強度が高まることで、社会の多様性や多元性が失われてしまいます。関東大震災の後に構築された国民レベルの防災体制が、そのまま昭和の総動員体制下の防空体制へと発展していったという興味深い研究があります(土田宏成『近代日本の「国民防空」体制』神田外語大学出版局、2010年)。ある時点で「よかれ」と思ってやることが、ずっと後に思いもかけないものにつながってしまうかもしれない。特に教育は、地味な活動の累積である代わりに時間的射程が長く、遠い未来のみんなの生き方に影響を及ぼしてしまう。だから、教育で何をやるべきなのか、何を思いとどまるべきなのかは、きちんと考えた方がいい。
――だとすると、大震災の教訓を適切に受けとめるには、どのように考えればいいのでしょうか。
広田 「何が変わるか」ではなくて、「何かを変えるべきではないか」という議論ができますね。長い時間軸で考えて今回の事件を「転換点」と受けとめて、大きな方向を変えようという議論が進むといいと、私は思っています。中心的な論点としては、「何をめざして教育をするのか」という点の問い直しをするべきだと私は思います。これだけではよくわからないと思うので、いくつかの論点に分けて、問題提起を含めてお話をしたいと思います。
まず、これからの日本はどういう社会を作っていくのか、といったあたりから。日本では、「より豊かで快適に」という生活のあり方があたり前だと思ってきていた。しかし、それが、自然を制度や技術によって制御することで成り立ってきていたものであったことを、今回の震災や原発事故によって思い知らされた、といえます。
つまり、われわれは次に述べるような二つの大きな問題を考えないといけないということが、今回の大震災と原発事故とで明らかになったと思います。
一つは、
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