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[6]震災後のリニア建設を考える(その3)――満鉄の特急にさかのぼる日本人の深層心理

聞き手=WEBRONZA編集部

原武史

●本居宣長と中国蔑視

――前回、江戸時代に本居宣長が出てきてからおかしくなった、というお話でしたが、どういうことでしょう?

 もともと日本は、中国を中心とする東アジアの儒教文化圏から見れば、辺境に位置する小さな島国に過ぎなかった。その点では、天皇を政治的支配者として前面に押し出した明治から戦前が特殊だった、おかしかったと思った方がいいのです。

 江戸時代の国学者や水戸学者が天皇を持ち出したために明治維新への道が開け、維新後の日本は近代化を一気に進めて日清戦争で中国に勝ち、西洋列強に伍して植民地帝国となったことで、近隣の大国だった中国を見下す風潮が生まれました。もちろん、西洋列強の侵略に対して危機感を共有するアジアは連帯するべきだというアジア主義も出てきましたが、結局は大きな潮流とはならず、昭和初期には換骨奪胎されて、天皇を中心とする「大東亜共栄圏」の正当化に利用されました。

 中国に対する日本の思想的優位を説いた重要人物こそ、本居宣長にほかなりません。それまでの日本では、多くの知識人が中国の儒教から影響を受けていましたし、そもそも大陸から文化を熱心に摂取するのが日本文化の基本でした。本居宣長の前には荻生徂徠のように、自分は中国人以上に正確に古典中国語(いわゆる漢文)を読むことができると考えた優秀な儒学者もいました。

 しかし、それを全部ひっくり返して、古事記などの研究を通して「からごころ」によって毒される前の澄み切った日本の姿をたたえ、中国人よりも日本人の方が優れていると説いたのが本居宣長でした。宣長によれば、中国では権力欲をもった人間が革命などともっともらしい理屈をつけて欲望を満たそうとするため、王朝がしばしば入れ替わるのに対して、日本ではそうした人間が現れず、天皇がずっと居続けている。つまり、革命が起こらないことを、日本人のすぐれた「国民性」に求めたのです。

 さらに宣長は、中国を基準とする日本という国号を嫌い、皇大御国(すめらおおみくに)といった言い方をして、日本を中心とする世界観を確立させました。こうした世界観は、19世紀になると水戸学者にも受け継がれ、日本を指して「中国」と呼ぶようにさえなりました。

――中国で確立された儒教をそのままありがたく受け入れるのではなく、全く違う日本独自の文脈で読み変えてしまったわけですね。

 ご存じの通り、儒教には四書五経と呼ばれる重要な教典があります。朱子なら大学・中庸・論語・孟子の「四書」を重視しますが、朝鮮の儒学は、朱子の解釈に忠実に厳密に解釈しようとする。彼らにとって朱子はある種、絶対的な存在です。しかし、伊藤仁斎や荻生徂徠といった日本の儒学者たちは、そうした解釈を批判した。朱子の解釈にあきたらず、自分たちの存在をアピールしようとする。だから日本の儒学は中国や朝鮮とは全く違ったものになりました。

 徂徠の「古文辞学(こぶんじがく)」は朱子の解釈に対する果敢な挑戦といえるかもしれません。自分が原始儒教の世界に帰って、朱子を媒介とせずに直接、詩経・書経・礼記・楽記・易経・春秋といった「六経」(ただし実際には、楽記は散逸していて読めないため、五経となる)のテキストを古代中国人になりかわって読めるという。四書よりも古い六経を読める自分の方が原典に忠実で正確だというのです。しまいには、そうした学者は中国にもいない、なぜ自分は日本なんかに生まれたのか、と嘆く。

――うーん、それだけを聞くと単なる誇大妄想という気がします。

 「荻生徂徠」という名前は、姓が2文字でいかにも日本的だからといって、「物茂卿」(ぶつもけい)というペンネームを別に作って姓を中国風の1文字にしてしまった。ところが本居宣長はそうした思想を全てひっくり返してしまう。日本の学者が完全に中国崇拝になってしまったのは、「からごころ」によって日本人の心が「汚染」され、転倒したものの見方が広がったからだと批判します。儒教のせいで、「もののあはれ」ではなく「理」(ことはり)が優先される世の中になってしまったが、本来の日本の姿は、古事記に余すところなく描かれている、というのです。こうした、とても無理のある思想を一人で展開してしまったのが本居宣長です。こうして国学が生まれ、その潮流が力を持つことで明治維新への思想的な道が開けました。

――幕末から明治にかけての思想や議論には、今から見て不思議に感じる出来事が多いですね。尊王攘夷の「攘夷」がいつの間にか「開国」に180度転換しますし、開国しようとしていた幕府は倒される対象となる。しまいには「尊王」さえも危うくなっていきます。

 よく指摘されることですが、孝明天皇がなぜあのタイミングで死んだのか。毒殺説はともかくあまりにもタイミングがよすぎる。数え16歳で天皇となる睦仁親王(明治天皇)がいなければ明治維新はありえなかったでしょう。

――「誰が」とはなかなか言えないと思いますが、ともかく恐らく何らかの大きな意図が働く形で日本の近代が始まった。そして、鉄道や軍隊に代表されるような近代化のための装置も多数導入されました。そして、日本の対外意識や対外関係も変わっていきました。

 最も大きな変化が起きたのは、中国に対する見方でしょう。先ほど言ったように、最初は江戸時代の極めて特殊な思想家一人の頭の中にしかなかった世界観が、結果的に幕末のみならず、明治以降の日本に大きな影響を与えていくことになります。具体的にいつごろになって日本人の意識が中国蔑視に傾いていくのかというと、やはり日清戦争でしょうね。福澤諭吉がこの戦争を「文明と野蛮の戦い」と呼んだのは有名です。つまり、このころになるともう、日本はアジアで唯一の「文明国」をもって任じていたわけです。

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筆者

原武史

原武史(はら・たけし) 

1962年、東京都生まれ。明治学院大学教授。専攻は日本政治思想史。著書に『大正天皇』(朝日選書、毎日出版文化賞)、『「民都」大阪対「帝都」東京――思想としての関西私鉄』(講談社選書メチエ、サントリー学芸賞)、『滝山コミューン 一九七四』(講談社文庫、講談社ノンフィクション賞)、『昭和天皇』(岩波新書、司馬遼太郎賞)、『鉄道ひとつばなし』『同2』(講談社現代新書)、『「鉄学」概論――車窓から眺める日本近現代史』(新潮文庫)など。最新刊に『鉄道ひとつばなし3』(講談社現代新書)がある。