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広田照幸さんに聞く 「ポスト震災の教育をどう考えるか」――(3)教育の目標は達成できないのがあたりまえ

聞き手=WEBRONZA編集部

〔教育目標の二重性〕

――これまでの日本の学校は、大きなレベルの「教育の目的」を見失っているのかもしれませんね。

広田 「教育の目的や目標が美しく設定されても、現実の教育はそれを実現できるとはかぎらない。だからといって、目的や目標を高く設定することに意味がないわけではない」ということが言えます。「人格の完成」とか、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」とかいうと、すぐに「そんなものタテマエにすぎない」というシニカルな議論が出てきてしまうから、この点をもっと多くの人に理解してほしいですね。

 現代ドイツの教育学者、ヴォルフガング・ブレツィンカが「教育目標の二重性」について議論しています(ブレツィンカ『教育概念の基礎概念』黎明書房)。「二重性」の一つは、教育を受ける者はこうあるべきだという理想としての教育目標です。もう一つは、教育者が実際に教育するために課題とされる教育目標です。

 少し難しいので言い換えると、前者は「教育を受ける者のあるべき姿」、つまり「であるべし」のこと。ブレツィンカは、前者の「であるべし」という教育目標は、それを実現するために用いる手段については何も述べない、と指摘しています。どうやればよいのかはわからないし、どうやればよいのかとは無関係に、目標は設定できるわけですね。

 だから、この側面で教育の目標を考えると、被教育者のあるべき姿を記述する言明は、あくまでも理想として掲げられているものにすぎず、実現するかどうかはわかりません。「個性あふれる子どもを育てる」という目標が掲げられていても、それはあくまでも理想にすぎないわけです。

 それに対して、後者は「教育者がこうすべきだ」という、(教師が)「なすべし」という目標です。これについては、目標が達成されたかどうかは確認ができます。「個性あふれる子どもを育てよう」と、教育方法や教育内容がきちんと組織的に展開されたのかどうか、という点を確認すればよい。つまり、教育活動のあり方の方向性を定めるための目標という側面です。

 つまり、教育活動の結果に関する理想を示すという意味での「教育の目標」と、教育活動の方向性を統一的なものにするための「教育の目標」という、二重性があるわけです。

 世の中には、この二重性を区別しないままの議論があまりにも多い。「目標が達成されていないじゃないか」と怒ってみたり、「どうせ実現できない目標だから」と無視してみたり。

 でも、「目標が達成されていないじゃないか」と怒ってはいけません。「であるべし」という教育目標は、十全には達成できないのがあたりまえなのです。「分数のわり算を理解させる」という教育目標は、そうならない子どもが出てしまうことを避けられません。教師が何をどこまで「分数のわり算を理解させる」目標に沿ってやったのか、が検証に値するだけのことです。

 同様に、「どうせ実現できない目標だから」と無視したりしてはいけません。そんな風に諦めてしまったら、目の前の教育実践を何に向けて組み立てるのかについてのポリシーがなくなってしまいます。目的も目標もないまま、理想のかけらもなく、ただ惰性で教育をやる、ということになってしまいます。受験対策のみを使命としたような高校教育は、こうしたシニシズムに陥ってきたといえます。

 ここで言いたいのは、高い目的や目標を設定することで、実現可能性とは無関係に、教育者が「何をなすべきか」が明確になる(後者の教育目標)という点です。だから、教育目標を掲げること自体は、教育を成り立たせるために必要なことなのです。

 そうであるとすると、教育者が「何をなすべきか」という点で、上でみたような高邁な教育目的や目標をもう一度きちんと大事にしてみませんか、というのが、私の言いたいポイントです。

――なるほど。高い理想のレベルまで戻って、組織し直すことを考えてみる必要があるだろう、ということですね。

広田 そういうことです。簡単ではないですけれどね。

――ちょっと確認させてください。先ほど「『であるべし』という教育目標は、十全には達成できないのがあたりまえだ」と先ほど言われましたが、それならば、高く掲げられた目的・目標は、結果としての子ども、すなわちアウトカムのレベルでは、常に理想通りには実現しないということですか。

広田 そうです。その点をきちんとおり込んで考えていかないといけません。「教育の目標」には二重性があるということは、教える側と学ぶ側との間に、常にズレがつきまとうのだということを意味しています。この点は、もう少し深く考えてみる必要がありそうですね。

 ブレツィンカの議論を踏まえると、次のようなことが言えると思います。まず、社会がある教育目標を理想として設定したとしても、その段階では手段は明示されていませんから、それを教育者がきちんと実行できるかは分からない。「現場で何とかしろ」という話になりますね。

 しかし、本当にそれがアウトカムの次元で実現する保証はない。すべての教育者ができるのは、目標に沿った教育方法や内容を教育者が考え抜いて準備し、実施してみることまでです。結果は分からない。ブレツィンカも「教育学の諸理念の歴史を注視して分かることは、多くの教育目標はその実現可能性を顧慮することなく提出されているということである」「むしろ教育目標の内容は、教育目標が実現可能であるか否かについては保留したままで規定されている」と言っています。「努力する」ということと「できる」ということは違うのです。

 しかも、教えるという行為と学ぶという行為との間には距離があります。教える主体と学ぶ主体はちがうからです。子どもの側では、「教えられても学ばない」ことが可能です。そこに、もう一つ、目標が達成されるかどうかについての不確かさがある(広田『教育には何ができないか』春秋社、など)。

――『ヒューマニティーズ 教育学』(岩波書店)の「はじめに」では、「いや、日々われわれは教育に失敗している。よかれと思ったことが裏目に出たりするのが教育である」という文章が印象に残りました。

広田 教育に失敗はつきものだ、という認識がもっと世間で了解される必要があります。教育は、ある種の「賭け」です。歴史上、このことを前提としない多くの教育改革が同じ過ちを犯してきました。ブレツィンカの表現を流用すれば「いかなる状況においてもその適用が正当と言えるような教育的行為の形式、『教育的措置』あるいは『教育手段』は存在しない。それらがいかに作用するかは、そのつどそれらが用いられる相互作用システムの全体に依存する」のです。

 最近は、PDCAサイクルとか、教育振興基本計画とか、目標を立てて目標の達成に向けて教育をやっていって成果をあげようという議論が横行しています。でも、教育は思った通りにはならない。そこで悲喜劇というか、そんなものがあちこちで展開しています。細かく詳細な教育目標を立てて、そのための手段も細かく設定する。――しかし、いざ実際の教育はそんな思い通りの結果は得られないから、つじつま合わせに苦労する、といった感じですね。政治家や官僚が誤解しているのは、目標と手段を細かく決めさせれば、上で望んでいる通りの結果が得られるだろうという、あまりに単純な議論でやれると思っている。でもそれは、教育の本質を知らない暴論です。

――そうなると、世間一般の単純な教育改革論の多くには期待できないことになりますね。

広田 教育は、工場のラインでチーズを製造するのとは違うんですよ。工程管理をしっかりやれば望み通りの製品ができる、といったものとは違う、ということです。

〔「受験のため」は理想・理念の放棄〕

――考えてみると、絶望的になりそうですね。高い目的や目標を掲げても、現実の教育の成果がそれを実現できるわけではない。

広田 そうなんですよ。教育は思ったふうにはできない。だからこそ、乱暴な改革と並んで、もう一つのやっかいな事態が生まれます。

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