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ヤンキースのジョー・ディマジオとタカハシ投手

高橋和夫 放送大学教養学部教授(国際政治)

 1941年の日米開戦から70周年にあたる2011年も残り少なくなった。同じ70周年でも、もう少し明るい話題を探せば、ヤンキースの強打者のジョー・ディマジオが1941年に56試合連続ヒットの記録を作っている。この記録は、いまだに破られていない。

 そのディマジオに会ったことがある。留学中にお世話になったホスト・ファミリーの父親のスティーフェル氏が、ディマジオの古い友人であった。1976年だったろうか、そのスティーフェル氏が何か賞をもらった際のお祝いのパーティーの席だった。

新婚旅行で来日したジョー・ディマジオ(左)とマリリン・モンロー=1954年2月、帝国ホテル提供

 「ジョー、こちらが日本の友人のカズオです」。そんな風に紹介されて握手をした。日本語の名前は難しいだろうと思い、ゆっくりと「マイ ネーム イズ タカハシ」とタカハシの後ろから2番目の音節にアクセントを置いて自己紹介した。そうすると英語を母語とする人には、日本人の名前が聞き取りやすい、と読んだ記憶があったからだ。

 「そんなに、ゆっくり言わなくてもよい。タカハシならよく知っている。その名前のピッチャーが巨人にたくさんいるだろう」が、ディマジオの答えだった。

 確かに巨人が9連覇した時代には知っているだけでも高橋一三、高橋明、高橋善正という3人の高橋投手がいた。巨人のアメリカでのキャンプ地をディマジオは訪れたことがあったのだろうか。

 ディマジオは、ホームラン王のべーブ・ルースや連続試合出場の記録を作った鉄人ルー・ゲーリックが去った後のヤンキースの英雄であった。輝かしい記録と鮮明な記憶を残して、1951年に引退した。引退後も話題の人物で、1954年にはマリリン・モンローと結婚し、ハネームーンで日本を訪問している。

 ジョー・ディマジオの名前を初めて聞いたのは『卒業』という映画を見たときだったろうか。この映画は、

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