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[1]当局のイメージ戦略と冷めた民心

石丸次郎 石丸次郎(ジャーナリスト/アジアプレス)

 金正日総書記急死の発表があった2011年12月19日から年末まで、日韓のテレビニュースは朝鮮中央テレビ配信の「追悼映像」に席巻された観があった。

 弔意の人波、慟哭・嗚咽する人民、悲しみに沈む街の光景が、連日、我々の前に続々映し出された。

 それは言い換えると、これらの配信映像は、金総書記の急死という一大事に世界が注目する中で、北朝鮮当局が見せたい、強調しなければならない国内の姿であった。

 それは次のように整理できる。

(1)全人民に尊敬され愛されていた金総書記=金総書記の偉大性

(2)北朝鮮全人民が一致して悲しんでいた=指導者の下、一心団結した人民

(3)唯一の指導者の急死という一大事であるが、国内は平穏=体制の安定

(4)弔意を表す人民の清楚な身なり、整頓された街並み=経済は混乱していない

(5)喪主としての金正恩氏の姿=後継者としての印象付け

 取材を徹底して排除しているため、どの外国メディアも朝鮮中央通信の配信映像を使わざるを得ないということを、北朝鮮当局はよくわかっている。映像の配信は北朝鮮当局による対外イメージ戦略であり、メディア戦略に基づくものなのだ。

日本で何度も報じられた泣き叫ぶ平壌市民の写真=2011年12月20日、平壌の金日成広場(朝鮮中央通信の配信)

 日韓のテレビメディアは、平壌で自由に取材することはもちろん許されず、北朝鮮の実情を示す映像もほとんど持っていないことから、これら平壌から続々配信される「追悼映像」をふんだんに使うことになった。

 さすがに、配信映像が北朝鮮の実態だとそのまま受け取るほど、今や日韓の視聴者はウブではない。過剰な「慟哭映像」に演出を見てとるのは困難ではないし、韓国入りした2万人超の脱北者たちが、実のところを解説してくれる。1994年7月の金日成主席急死の時の経験もある。

 だが、それでも、前述した五つの北朝鮮当局のイメージ戦略はある程度奏功したといえる。父の死を悲しむ正恩氏の泣き顔に韓国メディアは同情的だったし、彼自身の印象付けに大きな効果があった。繰り返し映し出される平壌の街波や人々の姿から、極度の経済混乱を想像するのは難しかっただろう。

 さてそれでは、肝心の北朝鮮内部の人々は金総書記の死をどのように受け取っただろうか。それは配信映像とはずいぶん違ったものだったようだ。

 金総書記の急死直後から、筆者は北朝鮮内部の取材パートナーたちと、中国キャリアの携帯電話を使って連絡を取り合った。まず面食らったのは、そのほとんどはテレビを見ていなかったことだ。

 「電気がほとんど来ておらず、金正日の死も19日正午の『特別放送』で知ったのではなく、午後になって市場に行って人伝えに聞いた。周囲も概ね人から聞いて知ったと思う」

 と北部・両江道の協力者は電話で述べた。

 東北部の咸鏡北道の協力者も、

 「電気が来ているのは市中心部だけ。追悼番組なんて見ようにも見ることできない」

 と伝えてきていた。

 エネルギー難が深刻な北朝鮮では、平壌と平安南道の一部を除いて発電は水力依存が高く、冬季は河川が凍結するため電力事情が悪化する。この冬の地方都市の電気供給は、深夜に1-2時間程度というところが多い。電気供給が〇秒という日も少なくないという。

 一連の「追悼映像」も、北朝鮮の人々よりも日本や韓国の方がずっと長時間見ているのではないかと思われる。また、この現実の電力不足ひとつとっても、「追悼映像」からは全く実情が伝わってこない。

ポスト金正日体制は「先軍政治」の継承を宣言したが、多くの将兵が栄養失調状態なのがその実態だ=2011年7月、平安南道にてク・グァンホ撮影

 「偉大な指導者の死」に対しても、内部から伝わって来たのは、淡々とした、冷めた反応がほとんどだった。日本にいる私たちの方がよほど興奮しているかのようだ。急死発表のあった19日の晩、国内の雰囲気を問う質問に、前述の両江道の協力者は、

 「昨日と変わらないなあ。金正日が死んだからって、私たちの知ったことではないんですよ」

 と、そっけなく答えた。

 咸鏡北道の別の協力者は、急死発表から一週間ほど後の通話で、

 「不穏な動きがないかと住民監視が厳しくなった。商売があがったりで生活が心配だ。弔問に何度も動員されるのが辛い。その時持って行かなければならない白紙の造花を買う負担が大きい」

 と追悼期間の不便に不満は並べたが、ついに金総書記の死を惜しむ言葉は聞けなかった。

 12月19日から1月5日まで、北朝鮮内部の6人と延べ20回通話したが、反応は概ねこのように冷めたものであった。経済を悪化させた金総書記が、北朝鮮の人々の間で生前からひどく不人気であったことが一番の理由だろう。

 さらに、その日その日を小商いで生き延びるのに精一杯の民衆にとっては、指導者の死に悲しみ沈む余裕などないということなのだと思う。(つづく)