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弟に挑戦した異端の兄の「籠の鳥」人生――『金正男独占告白』から

小北清人 朝日新聞湘南支局長

 その温和さと誠実な態度に、つい気を許してしまう。東京新聞の五味洋治記者は取材相手をそんな気にさせる記者です。ソウルと北京で計8年特派員を務め、中朝関係の強さに定評があり、北朝鮮報道では知る人ぞ知る存在です。

 昨年春でしたか、銀座で五味記者と食事したことがあります。その年1月末、彼は金正男氏との独占インタビューを書いていたので、金正日総書記の後継問題に話題は集中しました。後継者はすでに「三男・正恩」で決着していましたが、「正男氏については自分はこれからもこだわっていきたい」と彼が強い口調で話したのが記憶に残っています。

 いまにして思えば、この時点で彼にはすでに「金正男とのメールのやりとりの数々」を本にする構想があったのでしょう。

フェイスブックに掲載されていた金正男氏とみられる男性。マカオのカジノで撮影されたと見られる

 まさにスクープ本といえる『父・金正日と私 金正男独占告白』(文藝春秋)には、2004年に北京の空港で偶然名刺をやり取りしたことから始まった正男氏と五味記者の最近までのメールのやり取り、さらにマカオと北京での2度の直接取材が詳細に記されています。

 「北朝鮮が生き残るには中国式の改革開放に踏み出すしかない。三代世襲は物笑いの対象だ。韓国への軍事挑発(延坪島砲撃事件)は、軍部が国内での影響力を強化し、核保有の正当性を示すために行われたものだ」

 改革開放の必要性を繰り返し訴える正男氏の発言は、驚くほど外部世界の北朝鮮分析と似ています。まるで亡命中の「開明君主」が外からの目で本国を見ているかのようです。改革開放による体制崩壊を恐れた金総書記がなぜ正男氏を後継者に選ばなかったか、その理由がよくわかる気がします。

 ただ、彼のメールの文面から強く感じたのは、あまりに洗練されすぎというか、知識人的というか、2人の腹違いの弟とは違って長く外国で暮らす「異端の御曹司」ぶり、北朝鮮権力層から乖離せざるを得なかった宿命的哀しみのようなものでした。

 よく知られているように、正男氏は、正哲氏、正恩氏の2人の弟とは母親が違います。正男氏の母親はソウルの名家に生まれ、朝鮮戦争のときに左翼活動家の両親、姉とともに韓国から北朝鮮に渡りました。彼女は北朝鮮で有名女優となり、結婚もしましたが、若き指導者・金正日氏の目に留まり、いわば「略奪婚」の形で一緒に暮らすようになります。1971年5月、2人の間に生まれたのが正男氏です。

 しかし父の金正日氏が別の在日帰国者出身の女性に心を動かすにつれ、正男氏の母親は精神を病み、モスクワの病院で生活するようになります。正男氏の存在を金正日氏は最高権力者の父親・金日成氏に隠していました。そのため正男氏は平壌の学校には行かず、スイスのジュネーブの国際学校に送られました。

 「ジュネーブには9年以上いました」

 「私が平壌に住んでいたのは90年代初頭」

 「中国に住み始めたのは95年から」

 と彼はメールで言っていますから、80年代の大半をジュネーブで過ごし、90年前後に帰国したとみられます。当時は東欧社会主義国が雪崩を打って崩壊し、ソ連までが崩壊する激動期、金正日氏としては息子を欧州に置いておくわけにはいかなかったのでしょう。

 いったん平壌に戻った正男氏ですが、95年からは中国を拠点に生活することになります。平壌にいたのはわずか数年にすぎません。

 「私が留学に出た後、私の腹違い兄弟の正哲、正恩、ヨジョン(女性)が生まれ、父上の愛情も腹違いの弟や妹に傾いたようです。私が完全な資本主義青年に成長して、北朝鮮に帰った時から、父上は私を警戒したようです。恐らく父上の期待に背いたためです」

 平壌にいた時の正男氏の、高麗ホテルのコーヒーショップにたむろし、夜は同ホテルのナイトクラブで暴れたとか、拳銃を天井に向けて撃ったといった蛮行の数々はその後、在日朝鮮人を通じて日本の関係者の間にも広まりました。

 「帰ってきた資本主義青年」は、父親の金正日氏にとっては、頭の痛い問題だったに違いありません。

 正男氏の母親はモスクワで療養生活を続け(2002年死去)、彼が子供のころ平壌で兄弟のように一緒に暮らした叔母(母親の姉)の息子、娘は82年、92年にそれぞれ亡命してしまいます。そして母親代わりだった叔母も96年に亡命します。

 正男氏を小さいころからよく知る人は、父親を除く大半が北朝鮮からいなくなってしまったのです。

 北朝鮮の権力層は親族間の結婚で姻戚関係となることがとても多いのです。親戚同士となることで運命共同体になり、倒れるときは一蓮托生。「みんな親戚」の世界です。この一体感がロイヤルファミリーを頂点とする北朝鮮エリートの結束を生み、反体制派をエリート内に作らせず、また裏切り者を許さない強固な体制を生んでいます。

 10代のほとんどを資本主義国で過ごし、戻ってくるや好き勝手(自由主義)をする、友達のいない「権力者の息子」。体制を支えるエリート層にとって、彼がどれほど厄介な存在だったか、想像がつくというものです。

 中国に住み始めた正男氏は、北京とマカオを拠点に活動を始めます。中国で何をしているのか、彼は五味記者にもはっきりしたことは言っていません。ただ、「ヨーロッパで資金を運用し、その利益をアジアで使う仕事をしている」と明かしたようです。筆者は日朝貿易関係者から、正男氏が「妙香山経済グループ」という北朝鮮の外貨稼ぎ企業を率いていると聞いたことがあります。

 ロイヤルファミリーの極秘の海外渉外担当のようなこともやっているらしく、メールで彼は、金正日氏が2008年8月に脳卒中で倒れた時に平壌で治療にあたったフランス人医師は自分の主治医でもあり、医師の訪朝に自分も関与したと書いています。

 ファミリーの軍資金でビジネスを行い、危急の際は、「最高権力者の長男」として頼まれれば協力する。それが正男氏の立ち位置だったようです。

 95年から中国に住み始めた時点で、彼は「後継者候補」でなくなっていたのかもしれません。彼自身も「自分は後継者のリストに上がったことはありません」と書いています。

 そんな彼にとっての生命線は、金正日総書記、さらに総書記の妹で信頼の厚い金慶喜・党軽工業部長、その夫で絶大な力を持つ張成澤・党行政部長との深い関係です。メールでも彼は、父親の悪口は決して書かず、叔母夫婦との強いきずなを強調します。

 彼がなぜ五味記者と頻繁にメールのやり取りをするようになったかは、わかりません。ですが、途絶えていた彼から、「もし質問があるならお答えしたい」というメールが6年ぶりに届いたのが2010年10月22日で、それから盛んなやり取りが始まったことから、推測は可能です。正男氏は、父親や叔母夫婦とのつながりが今後も維持できるか、危機感を持ち始めていたのではないか。

 金総書記が脳卒中で倒れたのが2008年8月。翌2009年1月には後継者を正恩氏とすることで内部決定され、正恩氏は2010年9月下旬に表舞台に登場、党中央軍事委員会副委員長となり、朝鮮人民軍大将の称号を受けます。

 一方、正男氏はメールで、自分が最後に平壌に戻ったのは2010年1月ごろと書いています。つまり彼は後継者擁立が本格化する中で平壌に入ることさえできなくなっていた可能性があります。平壌にいる自分の取り巻きが一網打尽にされたとの情報もあります。

 あからさまな冷遇ぶりに憤懣を抑えきれなくなったのか、正男氏は10月9日、北京でテレビ朝日の取材に応じ、「三大世襲には反対。だが父親の決定には従う。弟から話があれば海外から協力する用意がある」と語ります。

 関係者によれば、正男氏はテレビ朝日に「放送は11日夜にしてほしい」と条件を付けました。10日は朝鮮労働党創建記念日で軍事パレードが行われ、正恩氏が初めてひな壇に立ちました。放送をパレードの翌日に遅らせることで北朝鮮指導部をできるだけ刺激せず、弟にメッセージを伝えたいとの考えがあったのでしょう。

 後継者となった弟にアクセスする方法を正男氏は持っていなかったのではないでしょうか。そもそも弟とは会ったことさえないと彼はメールに書いています。テレビ朝日のインタビュー後、彼はすぐ北京を離れたそうですから、身辺の危険を感じてもいたのでしょう。

 それでも平壌から明確な「返信」がなかったのか、業を煮やした彼が腹立ち半分、リスクを承知で10月22日にメールを送ったのが、過去に面識のあった五味記者だったのではないでしょうか。

 五味記者の粘り強い交渉が実を結び、2011年1月13日、2人はマカオで会い、正男氏はインタビューに答えます。

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