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[6]新たな「補償」に出るべき三つの理由(上)

朴裕河 世宗大学校日本文学科教授

 これまで見てきたことでわかるように、朝鮮人「慰安婦」という存在は、まぎれもない歴史の「被害者」であることがあきらかです。しかし、日本の世論は今のところ新たな補償どころか90年代の「基金」に対しても否定的であるように見えます。たとえば「基金」を「歴史的事実の冷静な検証が欠けていた」ものとみなし、「1993年の河野官房長官談話には、日本の官憲が組織的、強制的に女性を慰安婦にしたかのような記述があり、誤解を広めた。だが、こうした事実を裏付ける資料は存在しなかった」(2011年10月17日付『読売新聞』社説)というのはその代表的な意見です。しかし、これまで述べてきたことからすると、このような意見の問題点は明らかです。

 このような意見も背後で影響してのことと考えられますが、いずれにせよ「慰安婦」問題についての日本政府の公式の立場は、1965年の日韓条約で補償問題は解決した、というものです。そこで、今度は少しさかのぼることになりますが、1965年の条約について考えてみます。

拡大1965年11月6日、日韓条約承認などが衆議院の日韓特別委員会で強行採決され、国会は混乱した

 確かに、1965年、日韓両国は国交正常化をするにあたって過去のことについて話しあい、その結果として日本は韓国に合計11億ドルの無償・有償のお金や人的支援をしています。ところが、なぜかその賠償は「独立祝賀金」と「開発途上国に対する経済協力金」との名目になっていました。つまり、日本政府は、莫大な賠償をしながらも、条約ではひとことも「植民地支配」や「謝罪」や「補償」の言葉をいれてはいません。

 つまり事実上は賠償金でありながら、「名目」は賠償とはかかわりのないようなことになっていたのです。このことは、90年代の「基金」が事実上は政府が中心となったものでありながら、あたかも国家とは関係のないような形を取ったことと酷似しています。

 解放後、はじめての両国間の公式対話であった日韓会談は、成立までに14年間もかかりました。そしてそれが始まったきっかけは、広く知られているようにサンフランシスコ平和条約にあります。日本は敗戦後の連合国占領を終えて独立する際、サンフランシスコ条約によって戦争相手国に対する賠償を済ませました。

 しかし、韓国はサンフランシスコ条約の署名国としての地位を認められませんでした。そのために、サンフランシスコ条約の方針によって個別の「講和」をすることになったのです。そして日韓間の交渉は、朝鮮戦争さなかに、当時の大統領イ・スンマンの要請で始まったといいます(高崎宗司『検証 日韓会談』など)。

 朝鮮戦争のとき日本が後方でアメリカを支援する役割を担い、日本が戦争特需を謳歌したことはよく知られていることです。しかも、日本は戦争そのものにも深く介入していました(庄司潤一郎「朝鮮戦争と日本――アイデンティティ、安全保障をめぐるジレンマ――」防衛省防衛研究所『戦争史研究国際フォーラム報告集 朝鮮戦争の再検討 その遺産』2007・3、チョン・ビョンウク「日本人が経験した韓国戦争――参戦から反戦まで」『歴史批評』2010・夏号、歴史批評社)。米軍の要請に従って通訳や運転などの軍属の仕事だけでなく、直接参戦して命を落とした人もいたといいます。

 日本の参戦は、このときの日米韓が「反共」を理念にして固く密着していたことを教えてくれます。帝国崩壊後の日韓の新たな関係は、冷戦構造に深く加担することから始まっていたのです。

 もっとも、そのような「必要」に乗じての会談ではあっても、有名な久保田妄言による会談中断に象徴されるように、対話はもっぱら元宗主国と元植民地国との対話としての緊張あふれるものでした。その一端を見るだけで、「植民地支配」の過去のことをお互いに強く意識しての対話だったことが伝わります。そして、韓国側は、植民地支配時代に日本に搬出された文化財を要求するなど、「植民地支配」による問題の解決を強く要求していました。

 しかし、人的被害に対する要求は、1937年以降の、日中戦争における徴用と徴兵、そして突然の終戦によって支払ってもらえなくなった債権などの、金銭的問題が中心となっていました。つまり、1910年以降の36年にわたる「植民地支配」による人的・精神的・物的事柄に関する損害についてではなく(実際の日本の「支配」は「保護」に入った1905年からとするべきでしょう)、1937年の戦争以降の動員に関する要求だったのです。

 決裂することもあったほどにお互い「植民地支配」を強く意識していながら、そういうことになったのは、韓日会談の契機がサンフランシスコ会談によるものだったからです。というのも、サンフランシスコ平和条約は、あくまでも「戦争」の後始末――文字どおり「戦後処理」のための条約だったのです。日韓会談の枠組みがサンフランシスコ条約にあったために、その内容は「戦争」をめぐる損害と補償について話す、ということになっていたのでしょう。

 そして会談では、日本が残してきた資産と朝鮮が請求すべき補償金(対日債権、韓国人の軍人軍属官吏の未払い給与、恩給、その他接収財産など)をめぐっての話し合いが中心だったようです。そして「請求権」に関して、基本条約の付随条約――「財産及び請求権に関する問題の解決ならびに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」が結ばれたのでした。 

 つまり、日本がこだわっていた朝鮮半島内の日本人資産は放棄され(アメリカが戦勝国として「接受」し、それを韓国に分け与えた形を取りました。これも「反共戦線」を作るためのアメリカの思惑が働いてのことのようで、アメリカが日本からもらうべき費用(引揚者の帰国費用など)をそのようにして肩代わりすることで、韓国の自立を助けたというのです(浅野豊美『帝国日本の植民地法制』)。

 いずれにせよ、1965年の条約内容とお金の名目に「植民地支配」や「謝罪」などのことばが含まれなかったのは、そのときの韓国の「請求権」が、1937年以降の戦争動員に限るものだったためのことと思われます。そして、その賠償金はすべて韓国政府に渡され、国家が個人請求に応える形となりました。


筆者

朴裕河

朴裕河(パク・ユハ) 世宗大学校日本文学科教授

1957年、ソウル生まれ。世宗大学校教授。慶應義塾大学文学部卒業後、早稲田大学大学院で日本近代文学を専攻(博士)。著書に『和解のために――教科書・慰安婦・靖国・独島』(佐藤久訳、平凡社ライブラリー、2007年度大佛次郎論壇賞受賞)、『ナショナル・アイデンティティとジェンダー――漱石・文学・近代』(クレイン)、『反日ナショナリズムを超えて――韓国人の反日感情を読み解く』(安宇植訳、河出書房新社)など。編著に『東アジア歴史認識論争のメタヒストリー――「韓日、連帯21」の試み』(青弓社)。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです