2012年05月15日
前回見たように、反対があったなかでともかくも自民党も含む「閣議了解」を得たことは、自民党内に「謝罪」の気持ちがあったことを証明しています。何よりもそのことは、「政府」という「国家」機関が補償の「主体」になっていたことを物語るものでした。最初は民間基金としながら、「国家」が責任を負うことを求められ、形の上では「民間」(国民)にしながらも実のところ「政府」が「責任主体」になっていたとも言えるでしょう。
たとえば、「基金」の補償金と一緒に「慰安婦」たちにわたされた「首相の手紙」は、「個人としての首相」のものだったことが問題視されてきました(ホンダ・マイクインタビュー「特集 今なぜ慰安婦問題なのか」、「論座」2007・6)。しかし、それはまさに、「首相」という代表性を帯びさせつつも「個人」性を入れることこそが重要だったからと言えます。
つまりそれは国家賠償が済んでいると考えた「官僚」ならではの苦渋の「手段」だったのです。問題はそのことをどのように受け止めるかにありました。たとえ政府が「国家」としての代表性を意図しなかったとしても、そのことを「国家」を代表するものとして受け止めることも可能だったはずです。
「慰安婦」たちにたいする賠償額を裁判で決めていたとしたら、それぞれの境遇に応じて賠償額が異なっていたはずです。ある意味では、そのような「あいまい性」と「多様性」こそが朝鮮人「慰安婦」をめぐる、もっとも真実に近い状況でした。「基金」を作ったことは「妥協」「あきらめ」と言われましたが、その妥協は「謝罪をしないための」妥協ではなく、むしろ「謝罪をするための」妥協だったとも言えるのです。
そのようなことがよく見えなかったのは、もちろん政府のあいまいな態度――実際には補償主体になっていたことをはっきり示さなかったこと――にあります。いずれにしても、支援側の批判は、基金が果たしてどういうものか、また、そのほかに実現可能な代案はあったのかが検討されないままのものでした。
比喩的に言えば、「基金」は、「慰安婦」問題では謝罪したいと考えても、植民地支配は「近代化」には貢献した、と思うような人でも参加しえたものでした。そして基金問題は、そのような人々の参加を拒否するのかどうかの問題だったとも言えます。「基金」に反対することは、そのような謝罪は受け付けない、というようなものでした。
もっとも、植民地支配への「徹底した」謝罪を求める立場からは、そのような姿勢は不十分なものと言うほかありません。しかし、「慰安婦」問題は、政治的に、あるいは学問的にたやすく接点を見いだせるものではありませんでした。たとえば日韓併合条約無効論は、韓国側からの問題提起後10年以上経っていますが、いまだ接点を見いだしていません。
そのほかのことにおいても二次までの歴史共同委員会がいまなおそうであるように、歴史認識に関して国家間(そして左右の勢力間)の合意を得ることは簡単なことではありません。わけても様々な見え方があった「慰安婦」問題において認識上の「合意」を見いだすことはなおさら難しかったはずです(現に、「慰安婦」問題をめぐる議論は20年経った今でも続いています)。
そういう意味では、「慰安婦」問題の解決を本格的な歴史認識論争をめぐる理想的状態と結び付けるべきではありませんでした。早くも出ていた否定・否認側の声を押しのけて当時の政府がともかくも「道義的責任」を果たそうとしたのは、いまから考えれば、むしろ評価すべきことだったのです。
国民基金への批判とともに支援側が力を注いだのは
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