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[12]「世界運動」の効果

朴裕河 世宗大学校日本文学科教授

 ともかくも支援側は日本政府や意見の違う否定側との接点をさぐることより、日本の外部、つまり韓国や世界と連帯することにより多くの労力を割きました。つまり「日本」に見切りをつけて、被害当該国やその他の国家に訴え、あるいは連携して、外部から日本政府に圧力をかける戦略を取ったことになります。

 世界を相手に運動を始めたころ、「『慰安婦』問題だけでやっても無理」だから「人身売買とリンクさせなさい」との忠告を国連の関係者などから受けたといいます。最初は国連の「拷問禁止委員会」も「現在」のことだけをやっていて、「過去」の「慰安婦」問題には関心が低かったというのです。

 そこで運動家たちは、2004年に「ストップ女性への暴力」とのキャンペインをスタートさせ、「紛争下の女性に対する暴力」のなかに「慰安婦」問題を入れることができました。各国の支部がこの問題に取り組むようになったのはその後のことということです。

 そして2007年11月、アムネスティの主導で「慰安婦問題解決のためのスピーキングツアー」が実施されるようになり、オランダ、欧州連合(EU)、ドイツ、イギリス、カナダなどを被害者たちが訪問し、証言することが続きました。その結果、11月から12月にかけてオランダ、カナダ、EUの各会議で「慰安婦」決議が採択されました。

 このような経過が、運動家たちの地道な活動の結果であることは間違いありません。

 しかし、「人身売買」とリンクさせたことは、以前指摘したように、本来ならば「慰安婦」問題を考える際に度外視できないはずの「業者」の問題を隠蔽することになりました。いまや西洋諸国は、「慰安婦制度は20世紀の人身売買の最も大規模な例の一つ」としながら「皇軍の行為を言葉を濁さず、明確に、公式に認める」(「欧州議会決議」、引用は梶村太一郎「歴史認識の不作為と正義の実現 欧州議会対日『慰安婦』決議を読む」「世界」2008・6)ことを要請しているように、人身売買自体に日本軍がかかわったかのように認識しているのです。

 たとえ業者を軍などが「選定」(吉見義明「『従軍慰安婦』問題研究の到達点と課題」「歴史学研究」2009・1)したとしても、必ずしもそのすべてがそうだったわけではありません。さらに、動員の実態が「人身売買」であったことを承知して日本軍が指図したのでないかぎり、「人身売買」の主体を「日本軍」とするのは必ずしも正確とは言えないでしょう。。

 そして現在の問題としての「紛争下の女性への暴力」のなかに「慰安婦」問題を入れたのは、植民地問題を捨象することでもありました。しかし、日本の「戦争」は 「帝国」主義の中での出来事にほかならず、そのような運動方針は、自ずと問題の焦点を縮小することになったのです。多くの「西洋」諸国の同意を得られたのも、図らずもそれゆえのことと言えるでしょう。

 2007年の各国の議会での決議は、戦争における女性の被害を世界に訴え、共感を広めたことでは大きな成果でした。しかし欧米諸国の決議は、あくまでも運動が「植民地支配」の影を消した結果にほかならず、そこで欧米諸国は、自らが問われているとは考えないまま、安心して「日本」に「正義」の判定を下すことができたのです。

 支援側が、戦争による女性への暴力を犯罪とする認識を世界に広めた功績は大きいと言わねばなりません。しかし、「慰安婦」問題がほんとうに必要としたのは、世界が運動側の考え方を共有することではなく、さらに日本社会内の改革でもなく、ともかくも、日本内における「謝罪と補償が必要」との「合意」だったはずです。

 そして「謝罪と補償」の主体が「日本」である限り、そのとき話し、説得するべき対象は、ほかならぬ「日本」の「右翼」や「政府」でした。運動側の考える「正義」の形を、「日本」のすべての人々が共有する「理念」にすることを目標にするならなおさら、「保守」や「政府」を説得し、認識を共有するやり方こそが必要だったはずなのです。しかし支援側は、そうする代わり、被害国や世界に助けを求めることによって、「現代日本」を変えようとしたのです。

朝鮮人元「慰安婦」のビデオ証言を聴く「女性国際戦犯法廷」=2000年12月8日、東京・九段会館

 2000年の女性国際戦犯法廷は、世界を相手にした「連帯」の大きな成果と言えますが、その試み――昭和天皇を「犯罪者」にしたことは、むしろ解決を遠ざけたことだったと言わざるをえません。というのも、それは「天皇制」や帝国の構造を深く考えることはしないでも「慰安婦」問題に「謝罪」する気持ちがある人々の反発を買うことでもあったからです。

 実際に、

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