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広田照幸さんに聞く 「ポスト震災の教育をどう考えるか」――(4)「市民」が30%いれば、日本の政治は大きく変わる

聞き手=WEBRONZA編集部

――今よりも賢くなった市民たち自身が熟議して社会を作りかえていく、という新しい社会の意思決定モデルが広がったとしても、今後の日本や世界のように限られたパイを奪い合う社会では、「自己責任を押し付けられるだけではないか」という突っ込みがあると思うのですが。

広田 そういう批判は当然ありますね。たとえば、私の研究室出身の仁平典宏氏(法政大学)が『自由への問い 教育』第5巻(岩波書店)に、「シティズンシップの両義性」を考える論考を寄せています。つまり、市民に求められる能力が身につかない者が必ず出る。そして彼らが排除されてしまうのではないか、と。指導教員だった私の議論への痛烈な批判ですね(笑)。また、政治思想の研究者、岡野八代氏(同志社大学)は『年報政治学』2007年2号(木鐸社)の「シティズンシップ論再考」で、市民となる能力のないマイノリティの問題をどうするんだ、と問題提起されています。

 しかし、「市民」は単に自己の利害のみに敏感な人ではない。他者の存在に対して知識や関心を持つ存在だと思います。だから、他者も含めた公共性を考えることのできる市民が構成する社会を想定すれば、この点は大きな問題にはならないと思います。5%しか能動的な市民がいない社会では、システムからこぼれそうな人は自分たちで闘うしかないけれど、30%の人が能動的な市民として暮らす社会だったら、きっとそうした人たちの活動や主張のおかげで、システムからこぼれそうな人の問題が、公共的な主題として扱われるはずです。自分の権利を主張するだけでなく、同じ社会で共に暮らす他者の存在を見過ごすことのない市民をできるだけ多く育てるのが21世紀の公教育がやるべきことだと思っています。

――他者や公共性を考える市民がもしもたくさん育ってくるのであれば、市民性の習得の有無が排除に結びつくようなことは起きないだろう、ということですね。

広田 はい。

――もう一つ、社会の能動的な形成者になりたくない人たちをどうやって説得するかという点についてはどう考えればいいでしょうか。

広田 市民として自立したくない、面倒な意思決定になど関与したくない、余計なお世話だ、と考える人たちはいるでしょうね。教育がどれほど効果を発揮しても、こうした人たちをゼロにすることはできない。むしろ多数派のままでしょう。しかし、先ほども述べたように、個々の利益を最大化するような行動をとらない人たちが、現状よりも少し増えるだけで現実の諸問題に対する公共的な議論の質は違ってくる。投票結果や政治に大きな影響が及ぶはずです。

 ここで、前回、ブレツィンカを引いて議論したことが関わってきます。「市民形成」は、二重の目標として立ち現れます。教える側にとっては、「すべての子ども・若者を自立した市民にする」という教育目標になる。その目標に向けて教育を組織化していくことになる。しかしながら、教育される側からいうと、拒否や抵抗ややりすごしができる。

拡大教室に本物の記載台、投票箱などを持ち込んで実施された模擬投票。これと同じように模擬市民活動ができないだろうか=2011年1月31日、大分県日田市立朝日小学校

 だから、ちゃんとした市民的なスキルや能力を持たない者が出てくるのは当然です。それでよいのだと私は思います。100%の人に市民になってほしいと思って教育し、実際には30%にとどまるかもしれない。でも、30%もいれば、能動的な市民が社会全体の利益の代弁者となって、エリートだけではない政治の意思決定に参画し、制度や法律を作りかえる過程に関わることになる。それだけで日本の政治は大きく変わると思います。

――今はごく少数でしかない能動的な市民がもっと増えれば、それだけでも違う、と。

広田 そうです。5%が30%になれば、それでいい。その外側に、自分では何もしないけれど、社会の問題に知識や関心を持っている人が30%とか40%とかいれば、全体として、どんな社会的な問題でも、誰かが議論を始め、いろんな人がそれに関わるようになります。

 もちろん社会には多様な立場のちがいがあるから、論争になったり、意見が真っ向から対立したりするかもしれない。でも、そういう論争や対立を通して、結果的には、その問題について政治家や行政が動いていくべき方向を、市民が自分たちで水路づけていくことができるでしょう。

 だから、教育は「能動的な社会の形成者」をめざして行われたとしても、みんながそのような生き方をするようになるはずがないだけでなく、その必要もありません。そういう人たちの声に耳を傾けるだけの人もいればいい。そういう人たちの訴えに関心を持たない人も、当然いていい。ただ、ある程度の割合の人がそういうアクティブに社会に関わる生き方をするようになれば、身近な問題も、グローバルな問題も、きっと市民の目で監視され、市民の声で動くようになるでしょう。

 教育の場面に戻すと、自分のことで精いっぱいになるしかない困難な状況にある子どもたちは、まず自分の経済的自立を最優先で考えるのでよいだろう、と思います。困難校の子どもたちは自分の就職に向けて頑張るべきです。実際、学力や置かれた状況を考えると、そうしたアプローチしか、彼らの心に届かないでしょう。

 しかし、比較的余裕のある状況にある子どもたちに対しては、可能な範囲で能動的な市民の育成に向けた教育を受ける機会が与えられるべきだと思います。特に進学校の子どもたちは、自分たちの外側にある広い世界に目を向け、社会全体の複雑さに触れて考えるような回路を持つべきです。

 低成長時代には就職がどうしてもみんなの関心の的になるし、それはわかるけれど、みんなが就職だけをゴールにするような教育はまずい。みんながみんな自分が望んだとおりに就職するのは難しいし、目の前のクラスの子どもたちを競争で勝ち組にしても、それが社会をよくすることにはならない。

 95年の阪神・淡路大震災から今回の震災までの間に、NGOやNPO、ボランティアのような多様な生き方を目指す人々も増えましたが、まだまだ安定した職業人以外は、社会的にやっていくことが難しい状況です。だけど、税制をいじったり、規制をいじったりして、多様な生き方が可能になるような社会に向けて作りかえていくことはできると思います。

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