2012年07月25日
小沢氏の民主主義観を考察するうえで忘れられないのが、「どの女と一緒に寝ようがいいじゃあないか」という言葉だ。1994年4月26日未明、羽田内閣発足直前の「改新騒ぎ」の渦中、国会のエレベーターの中で記者から、社会党が統一会派「改新」に反発していると聞かれて答えた。
自分についてくる勢力を強引に集めてひとつの固まりにしてしまう、いかにも小沢氏らしい政治手法を比喩的に表現しているのだが、品位を欠くということもあって、この発言は一部の新聞やテレビしか報じなかった。そんな中、朝日新聞はこの言葉を見出しにして大きく報じた。小沢氏は直後の講演で「朝日新聞はアカ新聞かブラックジャーナリズムかと思った。こうしたペンの暴力を断じて許してはならない」と批判し、約半年間、朝日新聞の取材を拒否し続けた。
小沢氏の民主主義観は単純で分かりやすい。
「民主主義は多数が正義だ。それ以外に方法がない。誰でも間違いは起こす。だから、多数がいいと判断したものに従う以外にない」
「人間は神ではない。だれもが間違うかもしれない中で、みんなで物事を決めてそれを守る以外にない」
と割り切っている。
数で派閥や党を支配し、政権さえも支配しようという田中角栄氏の発想に通じるものがある。
洋の東西を問わず民主主義システムは時間と手間がかかるものだが、小沢氏は合意形成のために延々と議論することを排除する。それは裏の世界で妥協や譲歩などを繰り返す日本型コンセンサス形成過程の否定でもある。そして、議会で多数を獲得し権力を手にすれば、時間をかけずに多数決で物事を決めていく。それが小沢流民主主義である。
従って多数派形成がなによりも重要であり、そのためには「どんな女と寝てもいい」ということになるのだ。
自民党離党後の小沢氏の遍歴を振り返ると、この理屈を実践していることがよく分かる。小沢氏がいったん政権を取ると強引な政策決定と実行に走るため、しばしば党内外から批判を浴びてしばしば挫折する。そんな批判には「私のどこがトップダウンなのか。結論を出さないのが民主主義ではない」(1994年10月15日、朝日新聞のインタビュー)と反論している。
逆に野党に転落したときは、総選挙で新人議員の当選に力を入れるなどひたすら多数派形成に走り、さらに新たな連立の相手を探し求める。小沢氏は常に権力を求め続ける政治家なのである。
にもかかわらず小沢氏は首相や閣僚という公職には就かないし、公の場での議論をあまりしたがらない。小沢氏が政府の中のポストに就いたのは若いころの科学技術政務次官、建設政務次官、そして中曽根内閣での自治相、最後は1987年に就任した竹下内閣での内閣官房副長官で、以後、25年間以上、党代表や幹事長は務めたが、いわゆる公職に就いていない。
意図的に公職を避けているのか、たまたま巡り合わせが悪かったのかは断定できないが、「派閥会長に小渕さんがなっていようが誰がなっていようが自民党に残っていたらキングメーカーとして権勢をふるえただろう」と語っており、ロッキード事件で逮捕された後、キングメーカーとして党内に隠然たる力を維持し続けた田中角栄氏の手法が小沢氏の頭にあることは間違いない。
また、「僕が嫌いのなのはいい加減なウソをつくアジ演説です。冠婚葬祭でのあいさつも嫌い。議論は好きだが形式的なことは嫌いだ。そういう意味で僕は政治家に必要な要素の一つを欠いている」とも語る。
確かに国会議事録を調べても、小沢氏が質問に立っている機会は、自由党や民主党の代表として衆院本会議で代表質問をした場合などに限られており、ほとんど議会で質問をしていない珍しい政治家と言っていい。
もう一つ、忘れてならないことは小沢氏の側近と呼ばれる政治家がほぼ例外なくそばを離れてしまい、ときには政敵になってしまっている点だ。羽田孜、渡部恒三、岡田克也、藤井裕久氏ら、かつて自民党を一緒に離党したり新党結成に参加した政治家の名前をあげればよく分かるだろう。
小沢氏は「田中の親父は苦労人かもしれない。苦労人というのは最終的には他人を信用しなかったと思う。他人を信用していたらのし上がることなんかできっこない」と語っており、これは小沢氏自身にも当てはまっているのかもしれない。
■かつては消費税増税論者
次に小沢氏の政策を見てみたい。小沢氏が民主党を離党する際に最大の理由に掲げたのが消費税増税反対だが、小沢氏自身がかつては増税論者だったことはよく知られている。
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