メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

日本の社会・組織に求められる「社会的専門家」

鈴木崇弘 城西国際大学客員教授(政治学)

 筆者は、いくつかの拙記事において、民主主義は「民意(政治的要請)」と「多元的な専門性」のバランスを取りながら運営するものであるにもかかわらず、日本では政策形成において専門性を活用する仕組みや機能が欠如していることを指摘してきた。そのため政策形成がブレークスルーできず、国際的な政策競争で負けていることも、何度も指摘してきた。

 2011年の東日本大震災に伴う福島原発事故以来、原子力行政や原発の危機管理における専門家の役割や意義が大きくクローズアップされている(注1)。特に専門外の者には理解も判断もしづらく、こういう分野において専門家の役割はさらに重要であるといえる。このように、最近は「専門性」や専門家の役割への注目が集まっているのだ。

 しかし、この問題は、政策形成のプロセスや政策決定・危機管理の場に、専門家を単に配置すれば問題が解決されるということではない。政策決定や危機管理の場で専門的知識は必要だし重要だが、専門性だけでは、適切な判断や助言ができることにはならないのだ。

 別言すれば、その専門性と同時に、判断・決定・助言や危機によって生じる問題を的確に理解し、それらが国民にどのように影響を与えるのかということに関するイマジネーションと、自己の判断に対する自覚と責任が必要だということである。しかも、特定の業界の影響力にある専門家も好ましくない。

 つまり、専門家が、その分野で学界的に有名だったり高位にあったり、有名大学に籍があり、組織論理的かつ人事ローテーション的にその役にあったりした場合、平時では、その役を形だけ務めればいいので問題はない。しかし、危機的状況や社会的な影響力が大きい決定においては、その役は務まらないということである(注2)。

 ところが、現実には人事ローテーションで人事が決まることが多い。そうすると、事故や事件が起きた際、その役にいる者には、「自分はたまたまその時期に、その役にいただけ」という意識がはたらき、その社会的影響や意味・問題点を必ずしも真剣にとらえない傾向が出ることになる。

 またその役がある所属組織の中には、その役にたまたまいた者へのある意味の同情心のようなものが出て、守る心理が働く。そのようにして守ることが、組織防衛にも繋がるからなおさらである。

 日本のような社会では、そのような状況に対する何とも言えない空気のような理解が存在する。その結果、だれも責任をとることなく、大きな変革や改善がなされない状況が生まれやすくなるのだ。

 このことは、原発事故後の原子力関係者や原子力関連組織の専門家による責任への自覚の希薄な発言や証言などにも明確に表れていると思う。

 このようなことを単に「日本社会の問題」と言ってしまったら、問題は解決も改善もしない。

 歴史的にみると、社会や組織は、問題が起きた場合、責任ある立場にある者が断罪され、責任をとらされてきた。別言すれば、たとえその者が、直接の責任者でなかったとしても、そうすることによってしか社会や組織を変えることができないことを意味する。

 こう考えると、日本でも、政策的、社会的判断が必要な役に就く者は、専門性があるだけでなく、そのようなことが起こり得るという自覚をもち、権限と責任を行使できる人材でなければならないことになる。日本における「専門家」の活用における議論においては、この点の議論が欠落している。

 では、先述したような日本社会の状況・風土において、果たしてそのような人材をどのように生み出していけるのであろうか。 ・・・ログインして読む
(残り:約1406文字/本文:約2865文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。
Journalismの記事も読めるのは全ジャンルパックだけ!


筆者

鈴木崇弘

鈴木崇弘(すずき・たかひろ) 城西国際大学客員教授(政治学)

城西国際大学大学院国際アドミニストレーション研究科客員教授。1954年生まれ。東京大学法学部卒。マラヤ大学、イースト・ウエスト・センターやハワイ大学大学院等に留学。東京財団の設立に関わり、同財団研究事業部長、大阪大学特任教授、自民党の政策研究機関「シンクタンク2005・日本」の設立に関わり、同機関理事・事務局長などを経て現職。中央大学大学院公共政策研究科客員教授。著書に『日本に「民主主義」を起業する――自伝的シンクタンク論』『シチズン・リテラシー』『僕らの社会のつくり方――10代から見る憲法』など。

鈴木崇弘の記事

もっと見る