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尖閣諸島は、対外「説得性」を競う舞台である

櫻田淳

櫻田淳 東洋学園大学教授

■海外の「観客」を気にかけよ

 野田佳彦内閣が「尖閣諸島国有化」を閣議決定して以降、高まるばかりであった日中関係の緊張は、八十余年前に柳条湖事件が起こった九月十八日を過ぎ、表面上は鎮静の方向に向かったようである。

 日本にとっては、尖閣諸島の実効支配を固める文脈からすれば、「手掛けるべきこと」の議論は、既に出尽くしているのであって、問われるべきは、その「手掛けるべきこと」を実際に手掛ける政治判断の如何でしかない。

玄関のガラスを割り、ジャスコの店に押し入るデモの参加者。家電製品や貴金属類などが略奪された=2012年9月15日、山東省青島市、ジャスコ提供

 自らの海上権益を防護するための海上自衛隊や海上保安庁の活動に際して、法制度上の根拠を与え人員や予算の面で講じるのは、「普通の国」に近づくための当然の作法である。

 無論、中国政府は、そうした日本の動静を「軍国主義復活」といった言辞で批判するかもしれないけれども、そうした批判は、中国が軍事に絡む国内法制上の制約を持たないばかりか、少なくとも二〇〇〇年以降は一貫して対GDP比二パーセント超の軍事支出を計上してきた事情を踏まえれば、誠に御都合主義的なものでしかない。

 中国の「歴史認識」を絡めた対日批判には、日本が「普通の国」に脱皮することを通じて安全保障上のプレゼンスを拡張する事態を阻むという考慮が働いていることは、冷静に確認しておく必要がある。

 ただし、こうした日中「尖閣諸島」摩擦に絡んで留意しなければならないのは、その摩擦に臨んだ自らの立場を語る折に、どれだけの対外「説得性」を持ち得るのかということである。

 山崎正和(劇作家)は、『演技する精神』という書を著したけれども、この書を含めて、彼の議論から浮かび上がるのは、

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