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【WEBRONZA白熱教室】 原発――再稼働反対は正しいか否か?(1)――「正義」という考え方

小林正弥 千葉大学大学院社会科学研究院教授(政治学)

小林正弥 「WEBRONZA白熱教室」の第1回目は、原発の再稼働反対は正しいのかというテーマです。皆さん、ご存じだと思いますけれども、7月1日に大飯原発が再起動するということに反対する多くの人々が6月下旬に官邸前に集まって、15万人とか20万人という説があるほど多くの人たちが抗議の声を上げました。中にはそれを「紫陽花革命」と呼んでいる人もいます。

 まず、議論の前提となる思想ないし理論的な考え方を少しお話ししていきたいと思います。実はこういった対話型講義で正義について議論するということは、これまで大学のほかにもいくつかの場所でやってきておりまして、そのうちの一つは『対話型講義 原発と正義』(光文社新書)という本にもなったりしています。それらと同じように、マイケル・サンデル教授が整理されている正義についての基本的な幾つかの考え方、あるいは彼も言っている公共哲学の考え方を前提に、議論を深めていきたいと思っています。

「WEBRONZA白熱教室」=東京都・渋谷区のビブリオテック

 皆さんの中で、サンデル教授の白熱教室やその本をある程度ご覧になった、そして内容をだいたい分かっている、という方はどのくらいいらっしゃいますか? そんなに多くはないですか。半分ぐらいいますかね。

 私がサンデル教授(以下、敬称略)に注目したのは、公共哲学のプロジェクトがきっかけです。サンデルは公共哲学の世界的な代表者の一人なのですが、日本では公共哲学のプロジェクトは独自に展開しています。公共哲学、パブリック・フィロソフィーというものは、一部の関心がある人たちだけが考える難解な哲学ではなく、人々が広く共有する考え方であって、法とか政策の指針になるようなものです。

 たとえば、アメリカ大統領がはじめに就任のスピーチで語る基本的な政権の考え方を、オバマ政権なら「オバマ政権のパブリック・フィロソフィー」というふうに言います。それは、日本の政治にも非常に大事なので、そういった公共哲学を考えていくということが重要なのです。

 それからもう一つ重要なのは、公共哲学の「公共」という言葉です。何が本当のパブリックかということを考える必要があります。日本の公共哲学では、国家とか官とかいった、お上の意味で「公」という言葉を使うことが多かったのです。これは、語源から見ると、「おほやけ」というところから来るわけですけれども、それと区別して、人々が共に考え、行動していくような公共、すなわちパブリックを実現していこうというのが公共哲学プロジェクトの重要な目的です。

 それは最近、NGOとかNPOが重視されているように、人々がともに手を携えて、ともに実現をしていくという公共であって、民主党政権が発足してからよく使うようになった「新しい公共」という言葉のイメージが非常に近いと思います。

 また、公共という言葉を国内だけで考えるのではなくて、時空間的な展開のなかで、グローバルないしローカルな公共性を考えていくことや、時間的に過去の世代や将来の世代という世代間の公共性を考えていくことも大事だと主張しています。また、理想主義的現実主義といいますが、理想と現実が対立している中で、その理想をどう現実の中で実現していくかということに重点を置くのが日本の公共哲学プロジェクトの基本的な発想です。

 さて、サンデルは公共哲学をアメリカの文脈において論じているのですが、彼の主張する公共哲学も日本の公共哲学プロジェクトの主張とかなり近いものを持っています。アメリカは共和国ですから、共和主義がもともとはアメリカの思想にありました。それはギリシャ・ローマ時代に始まって、ピューリタン革命とかフランス革命、そしてアメリカ独立革命に影響があったわけですが、そういった思想が衰えてしまったので、それを復興して再生していこうというのがサンデルのパブリック・フィロソフィー、公共哲学の一番基本的な発想です。

 その共和主義とは、人々が公共的な関心、そして美徳を持って政治に携わり、人々が政治を決める、つまり自己統治を行っていくという民主主義です。ですから、先ほど言ったような、人々がともにいろいろなことを決めて実現していくという日本の公共哲学プロジェクトの考え方と非常に近いということが分かるだろうと思います。

 サンデルの対話型講義は、大学だけではなくて、来日したときも5000人規模の参加者のなかでおこなわれ、お隣の韓国では1万5000人規模ということでしたが、それは、哲学の基本的な考え方を多くの人々が知り、考えを深めていくことによって、民主主義の質を高めていくという試みでもあるわけです。

 ですから、彼も2011年に東日本大震災のあった日本にメッセージを送ったり、NHKの番組で日本・アメリカ・中国の学生などを相手に対話型講義をおこなって発言したりもしていましたけれども、例えば原発問題について、たいていは原発賛成派と反対派が感情的になって冷静な議論がおこなわれないことが少なくないなかで、本当に冷静な議論ができるかどうかが民主主義の試金石だ、と言っています。

 ですから、この「WEBRONZA白熱教室」についても、私は、こういった公共空間を広げて、民主主義の質を高めていくという場にしたいと思っています。

 私も、先ほど申し上げたように、大学のほかいろいろなところで対話型講義をしていますが、そこでは、哲学的な熟議民主主義の試みとして、賛成の側と反対の側と科学的なデータに基づくプレゼンテーションをしていただいた上で、一般の方々が議論するということもしています。

 最近、政府も今後のエネルギーについて三つのシナリオを出して、熟議型の世論調査をおこなったうえで決定をすると言っています。その意味では、私たちが提案してきた熟議民主主義、つまり賛成派と反対派がしっかりとデータに基づいて議論して、その上で決定していくということを政府も試みるようになったのは喜ばしいことです。

 そうは言っても、それが本当に熟議に基づいていないとよくありません。今までも審議会とか、さまざまな仕組みがあったわけですが、やらせ問題とか、意図的に誘導しているのではないか、という問題が生じました。ですから、この熟議世論調査が本当に正しい方法によっておこなわれていくかどうか、今後、注視していかなければいけません。

 しかし、政府の熟議世論調査だけではなくて、やはり人々がいろいろな空間でこういう議論をしっかりとして、その上で最終的な決定がされていくということが熟議民主主義にとっては必要ですので、この「白熱教室」もそういったことを活性化していくチャンスになってほしいと思っています。

 さて、正義、特に原発再稼働について正義の問題を議論してみたいのですが、サンデルは「白熱教室」で基本的な正義の考え方を三つに整理しています。

 第一は、「功利主義」といわれるものです。これはごく簡単に言うと、一人ひとりが喜びと苦しみを感じる度合いを数量化することができるという考えに基づいています。ですから幸福の量が一人ひとりの主観的な喜びや苦しみに基づいて決まっていき、しかも全員の分を合計することができるので、その総計を最大にすることがよい政策や行動ということになります。

 逆にそれが低くなるのは悪いことであるわけです。これはベンサムという哲学者が出発点になって、その後、さまざまに展開して、今でも非常に有力な考え方になっています。

 この功利主義の考え方は、例えば経済に非常に大きな影響を与えています。今日の主流派の経済学の考え方は、功利主義と近いところから始まっているのです。例えば経済学の基礎に、ユーティリティー、効用という概念がありますが、それは功利主義の言うユーティリタリアニズムと同じ言葉から来ているわけです。ですから、経済的な発想には功利主義と非常に近いものがあると言うことができます。

 例えば今までの日本はGNPが大きくなるということをよしとしてきました。GNPが大きくなれば、一人ひとりの収入が増える。そうすれば、そのお金を使って、喜び、快楽を味わうことができる。だからその快楽の量が増えるということは、GNPが増えるということと非常に近いという発想になるわけですね。

 この功利主義の考え方を批判して、別の考え方を提起したのが、私が自由型正義論と呼んだり、義務・権利論と言ったりしているもので、義務や権利を重視する考え方です。哲学的には、例えばカントなどが出発点ですけれども、彼は義務論を提起しています。たとえば、人間にはほかの人を殺してはいけないという義務があります。

 しかし、それは裏を返せば、誰しも殺されないで生きていく権利があるということになり、義務と権利は表、裏の関係にあるのです。今日では、権利を重視する考え方が隆盛を誇っており、これが第二の自由型正義論と呼んでいるものに相当します。

 ただ、この自由型正義論も二つの大きな類型があって、第一は、リバタリアニズムと言われるものです。それは権利の中でも、いわゆる自由権だけではなくて、所有権を非常に重視します。

 これはどういうことかというと、「人は自分の体を所有している、つまり自己所有しているのだから、その体でおこなった労働の成果は自分のものであり、だから、通常の市場経済の中で自分が得る所得や収入は自分のものだ。それを、政府が福祉のためとはいえ、強制的に税で徴収するというのは、その人の所有物を勝手に取り上げることだから、これは不正義だ」と基本的に考えます。その意味で、政府の役割をなるべく小さくする、そして税金を減らすということをよしとするのです。

 これは経済学では、ネオ・リベラリズムといわれるものに政策的には非常に近いのです。規制緩和とか民営化は、日本でも中曽根政権ごろから強調されて、小泉政権のときの郵政民営化などはその典型的な政策でした。通常、経済学では市場経済が大事で、政府が強引に介入すると、経済の活力、効率性が失われるという議論をするわけですが、政治哲学においてリバタリアニズムという場合は、それが権利の観点から不正義だとして、非常に強い原理的な批判を加えるのが大きな特色だと言うことができます。

 他方で、同じ権利を重視する考え方の中でも、リベラリズム、とくに平等主義的なリベラリズムというものがあります。アメリカの政治哲学のリベラリズムは、ヨーロッパのさまざまな自由主義の流れとは区別する必要があり、通常の自由の権利だけではなくて、例えば福祉の権利といったものも権利の中に入れて考えていこうとします。

 ですから先ほどの所有権を重視するリバタリアニズムと政策的には大きく対立していて、「福祉のために徴税して、それを分配する」という考え方も正義の中に入れて考えるのがリベラリズムということになるわけです。歴史的、思想的にはハーバード大学のジョン・ロールズという哲学者がこの考え方を提起したことによって、リベラリズム、さらには政治哲学一般が復権したということになります。

 ここでは分配の正義が考えられていて、格差原理と呼んでいますが、あまり大きい格差ができることにも反対しています。これはアメリカの思想ですから、社会主義、共産主義とは違うわけで、みんなを平等にするという発想をとってしまうと、経済そのものが発展しなくなってしまう。そうすると、いくら福祉によって平等にしても、貧しい人にとってもよくないという考えなのですね。だから、一定程度の格差はやはり必要だと考えます。

 しかし同時に、今のアメリカでは非常に格差があって、だからこそウォール街の占拠デモがあったわけですが、格差の広がった状態になってしまうと、貧しい人にとってはやはり非常に不幸だということになります。なので、ある程度、経済が発展することによって福祉がおこなわれて、もっとも貧しい人にとってもいいというような、一定のレベルの格差が正しいことになります。それ以上の格差は間違えており、だから福祉国家は正義にかなう、という議論がジョン・ロールズの正義論の一番の中心のポイントです。

 ですから、福祉、あるいは分配をめぐる議論の対立がリバタリアニズムとリベラリズムの対立です。

 これに対して、マイケル・サンデルや私の考えは、

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