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なぜインターネット選挙は解禁されなかったのだろうか?――選挙期間に言論の自由が縛られる非民主主義国・日本

小林正弥 千葉大学大学院社会科学研究院教授(政治学)

■日本の人びとは本当に自由なのだろうか?

 民主主義の代表的思想家ジャン・ジャック・ルソーは、有名な『社会契約論』で、「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう」と述べた。

 この言葉は、今の日本にも当てはまるかもしれない。民主党政権は、前回の総選挙では華々しい理想を掲げながら、選挙が終わってしばらくするとその公約を無視して、消費税導入などでそのマニフェストと全く異なる政策を実行したからである。

 それなら、人びとは総選挙において主権者として自由に主権を行使する他ない。ところが、日本では、選挙期間中には逆に人びとは自由に言論を公表することができなくなり、さらに今回の総選挙後には民主主義が脅かされる危険すらあるかもしれない。

 ルソーにならって言うと、「日本の人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙しない間だけのことで、議員を選挙する間には自由ではなくなる。そして、議員が選ばれるやいなや、日本人民は奴隷となり、無に帰してしまう」ということになってしまうかもしれないのである。

■公職選挙法の反自由主義的・反民主主義的解釈

 今の公職選挙法では、選挙運動において、定められている葉書やビラ以外の「文書図面」の頒布が禁じられている。もちろん、この規定が作られた時にはインターネット時代の到来は予期されていなかったのだが、インターネットも「文書図面」に相当すると解釈されて、サイトやブログ、電子メール、ツイッターなどで投票依頼をすると抵触する恐れがあるとされている。

 民主党政権下で、これを改正することが与野党で議論されていたのだが、結局実現しなかった。だから、アメリカや韓国のようなインターネット選挙があまり日本では見られないのである。

 しかも、この禁止規定は、政党や候補者だけではなく、一般の人びとにも適用されるという説明がしばしばなされている。だから、これを厳格に解釈すると、一般の人びとがインターネットを通じて、選挙について特定政党・特定候補者に有利な意見やデータなどを公表すると逮捕される危険があるということになってしまう。

 実際には一般の人びとへの取り締まりはあまりおこなわれていないから、これは実際には杞憂かもしれないのだが、総務省選挙課などに問い合わせても、合法と違法の間の区別に関して明確な答えは返ってこない。だから、このような懸念が多くの人びとの意見表明にとって心理的な足かせになってしまっている。

 実際には、公職選挙法で縛られているのは、「政党その他の政治活動を行う団体」が「選挙運動のために使用する」ことであり、「選挙運動のために使用する文書図画」の頒布である。しかも、インターネット情報は、通常の日本語では、ビラなどのように「頒布できる文書」ではなく、「公開されている文書」である。だから、一般の人びとのインターネット上の意見表明が規制されているという解釈は、拡大解釈であり、これは自由と解釈すべきだろう。

 むしろ、ある「インターネット哲学者」(諸野脇正)が主張しているように、選挙活動自体についても「選挙活動は、『本来』インターネット上でするべきものである/インターネット上の選挙活動は法律で禁止されていない/ホームページへのアクセスは有権者の自発的な行為である/有権者の自発的な行為を禁止するのは不当である」という考え方の方が説得力がある(http://www.irev.org/senkyo/free.htm)。

 なぜなら、路上で選挙カーが呼号しても限られた人にしか伝わらないし、政策を細かく説明することができず騒音にもなるのに対し、インターネットなら政策を詳しく説明できるし、いわば「選挙事務所内の資料室の公開」のようなものだから、それを許しても誰の迷惑になることもないし、それを自由に閲覧するのは有権者の自由であるから、というのである。

 そもそも、公職選挙法の禁止規定は、「文書図画の頒布」はコストがかかるという想定の下に金権選挙を防ぐために作られたものだ。でも、インターネットではこのようなことはなく、コストがあまりかからないから、インターネット選挙を解禁することは、むしろ金権選挙を防止することに役立つ。

 こう考えてみると、政党や候補者・政治団体のインターネット選挙は解禁されるべきものなのだ。まして、政治団体の選挙活動に相当しない一般市民の意見表明が、法律的に規制されていると解釈するのは、人びとの言論活動の自由を縛るものであり、反自由主義的で、反民主主義的だとしか言いようがない。

■日本は反自由主義的・反民主主義的な国家なのだろうか?

 橋下徹大阪市長が、公示後にツイッターで「日本未来の党」の原発政策を批判したことが話題になった。橋下氏は候補者ではないが、「日本維新の会」の代表代行だし、公選法上は候補者以外でも選挙運動は規制されているからだ。橋下氏は公職選挙法の禁止規定を「バカみたいなルール」と述べて批判したが、藤村修官房長官が「一般論で言うと記載した内容によっては公選法の規定に抵触する」と述べ(12月5日)、橋下氏も「もしかしたら選挙後に(公職選挙法違反の疑いで)逮捕されるかもしれない。そのときは助けてください」(12月9日)と述べて断念した。それ以来、選挙に関わる政治家からのインターネットやツイッターによる発信はない。

 他方、市民たちは、インターネットで自分たちの政治的見解を公表することが公選法の規制にふれるのではないか、と心配しながら選挙を見ている。たとえば、「このような危険な状況に対して、僕らは何が出来るのか? 今何もしないで、いいのか? とても心配なので、ブログでその思いを書きました。これは選挙違反になるのでしょうか?」というようなメールがしばしば市民の間で飛び交っている。慎重に発信をあきらめる人もいるし、危険を心配しながらも果敢に発信する人もいる。

 そもそも、民主主義の基礎は人びとの議論にある。それなのに、インターネットを使って市民たちが選挙について自由に意見を表明できないというのは、多くの論者が指摘しているように、どう考えても異常で、反自由主義的・反民主主義的である。一体、今の日本の選挙では、どういうことが起きているだろうか?

 まず、新聞やテレビをはじめ大手のメディアは、選挙期間に入ると、特定政党に有利ないし不利な記事や論説を掲載したり放送することを自粛するようになる。他方で、各政党の選挙公約や選挙演説などは可能な限り、中立的にバランスよく伝えようとする。その結果、人びとに対しては、これらの情報を自分でよく調べて、よく考え、投票するように勧めることになる。そのような論説や放送は数多くなされているが、それ以上に踏み込んだ議論が提供されることは少なくなる。

 しかし、熟議には情報の提供だけでは充分ではない。なぜなら、多くの人びとは政治について考えることに慣れていないので、自分で情報を読み解くことは難しいから、そのような時間やエネルギーをかけずに、結局は棄権したりムードに流されて投票したりすることが多いからだ。

 だから、そうやって提供された情報について、専門家や一般の人びとが多様な議論を提示し、それを多くの人びとが見られるようにする必要がある。人びとは、それらを参考にすれば、自分で考えることができるし、意見を形成して投票できるようになる。インターネットで人びとが自由に意見を述べることができるのならば、それを通じて多くの人びとが議論に加わることもできよう。

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筆者

小林正弥

小林正弥(こばやし・まさや) 千葉大学大学院社会科学研究院教授(政治学)

1963年生まれ。東京大学法学部卒業。2006年より千葉大学大学院人文社会科学研究科教授。千葉大学公共研究センター共同代表(公共哲学センター長、地球環境福祉研究センター長)。専門は、政治哲学、公共哲学、比較政治。マイケル・サンデル教授と交流が深く、「ハーバード白熱教室」では解説も務める。著書に『対話型講義 原発と正義』(光文社新書)、『日本版白熱教室 サンデルにならって正義を考えよう(文春新書)、『サンデル教授の対話術』(サンデル氏と共著、NHK出版)、『サンデルの政治哲学 〈正義〉とは何か』(平凡社新書)、『友愛革命は可能か――公共哲学から考える』(平凡社新書)、『人生も仕事も変える「対話力」――日本人に闘うディベートはいらない』(講談社+α新書)、『神社と政治』(角川新書)など多数。共訳書に『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業』(ハヤカワ文庫)など。

 

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