メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

憲法改正論議への違和感

鈴木崇弘 城西国際大学客員教授(政治学)

 筆者は、憲法の専門家ではないが、憲法論議はもっと活発にすべきだと考えており、憲法改正に反対なわけでもない。だが、今の憲法改正論議には違和感を覚える。そのことを前提に、本記事の論考を進めたい。

 来たる参議院選挙で、憲法改正が争点になるかどうかが注目されている。安倍第二次政権が成立したことで、議論が再燃した形だ。安倍総理は先の第一次政権の時も、「戦後レジームからの脱却」を標ぼうし、憲法改正を一つの目標に掲げていた。そこでやり残したことを何としても実現したいという意志が昨今の憲法改正論議を生んでいる。

 また自民党が、先の衆議院選挙で大勝し、次の参院選でも、アベノミクスのとりあえずの効果と野党の敵失で勝利し、国会で圧倒的な力をもちそうな状況では、憲法改正が実現味を帯びている(注1)。

 近代憲法は、その形成過程や歴史的観点から考えると、あくまでも国家権力を縛るもの、コントロールするものであり、権力の側が国民に対して守るべきルールを定めているといっても過言ではない。つまり国民と権力者との約束だ。

 別言すると、国民が本来主権者として有する権力を、別の者(権力の側)に委託して、その権力を行使する場合に実現すべきことや守るべきことを決めているのだ。

 その意味からすると、権力にある側が、憲法改正の手続き(憲法第96条<注2>を簡単にすることを自らいい始めるのは、本末転倒といわれても仕方がない。

 よく知られているように、憲法手続きを「総議員の3分の2の賛成」としているのは、少数意見や少数の立場を守るためであり、それが国民の大多数の意見になるように努力することを、権力の側に義務づけていると考えられる。それが面倒で難しいから、「過半数」にして手続きを簡単にしようというのは本来的におかしいのだ。

 憲法改正を持ち出すには、改正にこれまで何度もトライし、実現できていないという経験があること(注3)が必要だ。そして、その経験の結果、

・・・ログインして読む
(残り:約1046文字/本文:約1867文字)