2013年06月08日
筆者は、AKB48を宗教現象と見ている。社会学者で批評家の濱野智史氏が『前田敦子はキリストを超えた――<宗教>としてのAKB48』(ちくま新書)を上梓し、前田敦子さんの「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」という言葉に利他性を見出し、それをイエス・キリストと類比的にとらえた。
濱野氏は、吉本隆明氏の『マチウ書試論』のキリスト理解を導きの糸にして、AKB48を宗教現象として理解する。
この見方は、基礎教育がキリスト教(プロテスタント)神学である筆者から見ても、実にまともな見方だ。濱野氏は、神学的にとてもよいセンスをしている。
マルクス主義者は、無神論者であるという自己認識を持っていたが、信じることをやめたわけではない。ロシアの共産主義者は、無神論とか唯物論という名の宗教を信じたのである。
現下の日本人の多くも特定の宗教を信じていないと思っているが、決して合理性だけを信じているのではない。それではわれわれは何を信じているのだろうか?
自覚しないうちにわれわれはマネー(貨幣)の力を信じている。しかし、貨幣は、人間と人間の関係から生まれたものだ。製作原価からすれば22円くらいの1万円札で、1万円分の商品やサービスを購入できるのを疑っていないこと自体が宗教だ。借金苦で自殺する人もいれば、カネのために犯罪を犯す人もいる。これはマネーが宗教性を持っているから起きる現象だ。
また、ナショナリズムも現代人にとっての宗教としての性格を持っている。尖閣諸島をめぐる問題が日本人、中国人の感情をなぜこれほど刺激するかについても、合理性だけでは説明できない。
マネーやナショナリズムが、人殺しをする力を持っているのに対して、AKB48という宗教は、少なくとも現時点では、人殺しをする方向にエネルギーを向けてはいない。ここに教団組織者である秋元康氏の天才的能力がある。秋元氏は、作詞家という肩書きにこだわる。それは、キリスト教が聖書に、仏教が経典にこだわるのと同じように、宗教は言葉によって価値をつくりだすからだ。
しかし、秋元氏の作詞したテキストを解析しても、そこからAKB宗教の本質をとらえることはできない。それは、聖書や仏典の学術的なテキスト批判を行っても、そこからキリスト教や仏教という宗教の本質をとらえることができないのと同じである。
キリスト教や仏教の本質は救済宗教だ。「救われたい」という人間の叫びに答えることができてきたので、キリスト教も仏教も古代から現代まで生き残ることができたのだ。そのポイントが利他性だ。人間は、利他的な人の感化を受ける。イエス・キリストは、「受けるよりは与える方が幸いである」(「使徒言行録」20章35節)と言った。
ここで示された利他性が倫理的基準になっているため、キリスト教が信者の魂をつかむことができるのだ。前出の前田敦子さんの「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」という発言も、AKB48という宗教教団の
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