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 麻生太郎副首相兼財務相のナチス発言が波紋を広げている。ドイツにもすぐ伝わった。

 元来は保守系オピニオン・リーダーの『フランクフルター・アルゲマイネ』紙も、「全部『誤解』だったらしい」と皮肉たっぷりの見出し。「誤解された」「コンテクストを無視して伝えられた」というのは、言い過ぎを批判された政治家が自己弁護するあまり効き目のない常套手段だ。

 おまけに同紙は、自民党憲法草案に基本的人権を変更不能とする現行憲法97条がそっくり「代替抜きに消されている」ことも挙げて、「熱烈なナショナリスト」の麻生と安倍がめざすのは、「人権ではなく、権威主義国家なのだ」と断言している。出先の日本国外交官たちは、およばれの席で言い訳に苦労することまちがいない。

 ところで、財務相は財務が専門らしいから歴史に弱いのも無理ないとはいえ、ヒトラーの政権獲得とワイマール憲法の空文化のプロセスに関する彼の見解には重大な誤りがある。

 第一は、「ヒトラーは民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、出てきた。ドイツ国民はヒトラーを選んだ」というくだりである。

 事情はまったく異なる。ワイマール憲法と民主主義の打倒を掲げるヒトラーがこの憲法に忠誠を誓う茶番の儀式を経て首相になったのは、1933年1月30日の昼前だ。

 その頃ドイツは、繰り返し国会解散と総選挙が続いた状況で、もはや議会制民主主義の体をなしていなかった。

 左右両派の激突はひどい状態で、議会も怒号の嵐で演説は聞き取れないうえに、不信任案の連発で機能停止だった。すでに1930年3月、世界恐慌の荒波のなかで、中間諸政党からなる、それまで比較的安定していた連立政権が崩壊し、憲法上相当な力を持つ上に、国民に人気のあった第一次大戦の英雄ヒンデンブルク大統領の指名と非常措置によって内閣が作られる「大統領制内閣」だった。

 1932年11月の選挙でナチは退潮し、33パーセントの支持を得たにすぎなかった。それでもナチこそ安定をもたらすと考えて、ヒトラーの首相指名を大統領に勧告する人々もいたが、ヒンデンブルク将軍は、「ボヘミアの上等兵が首相とはふとどき千万」と相手にしなかった。元来オーストリア人で、第一次世界大戦の伍長にすぎないあんな奴と将軍の俺とは格が違うということだろう。事態の収拾がつかなくなった1月の末にしぶしぶとヒトラーを指名したにすぎない。麻生氏の言うように「きちんとした議会で」「選挙で選ばれた」のではない。大統領指名である。

 ヒトラーはそれ以前から、合法的な権力奪取政策に転じていたが、それはカムフラージュで、はじめからワイマール体制の転覆を狙っていたことは誰の目にもあきらかだった。ルール地方のドイツ重工業の大物たちと密会し、さらにはシャンパンとウィスキーの卸業者で、貴族の称号を遠縁から買った、後のナチス政権の外相フォン・リッベントロップ邸でも軍や政府の要人と秘密の会合を重ね、彼らの支持を取り付け、自分を嫌うヒンデンブルクへの圧力を強めていった。

 首相就任にあたって持ち出した条件にしたがって、3月にもう一度総選挙が行われた。そして44パーセント近くを獲得し、勢力を強めたことは事実である。

 しかし、これはもはや「きちんとした」選挙とは言えなかった。それまでに共産党系代議士は拘束され、社民党も機関誌の発刊を止められ、さらには2月の、真相はいまだに不明な国会議事堂炎上事件を受けて、ワイマール憲法の基本権が「当分の間」停止されていた。

 3月の選挙は、今でも世界各地で行われている一方的な選挙と同じだった。「ヒトラーは民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って出てきた」というのがいかにまちがいか、あきらかだろう。形式的合法性と実質的な民主主義を取り違えられては困る。

 第二の間違いは、「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった」という部分である。このあとに「あの手口を学んだらどうか」と来る。この言い方に歴史修正主義者と改憲主義者に溢れる会場も笑ったが、これは失笑ではなく、同意の笑いだったようだ。

 3月の選挙の強引な「勝利」ののちに、全権委任法なるものが3月23日に議会をとおった。これ以降、議会は無意味な存在となり、条約の批准も法律の承認も必要なくなり、首相、つまり総統の承認と官報掲載だけでいっさいの法が可能となった。ユダヤ人追放に関する諸法や独ソ不可侵条約もすべてヒトラーとその周辺の一存となった。

 ところでこの全権委任法が議会による民主的な手続きで(「誰も気づかないで」「静かに」)ワイマール憲法を事実上無効にした、と一般にも(ドイツですらときに)思われているようだが、これも間違いである。

 まずはこの議案上程の大分前に、ほとんどが逮捕されている共産党議員の議席を存在しないことに決めてしまった。これによって院の構成人数が81議席も減らされた。また社民党の一部などナチスに強く抵抗し、無断欠席した議員を60日間登院禁止にした上で、欠席している彼らも実際には「出席」とみなす、東電の株主総会でも使わないトリックを議長は使った。

 これによって、ワイマール憲法改正に必要な「法的構成員」の3分の2の出席議員の3分の2の賛成というハードルを越える「手口」を使ったのだ。このあたりは、『自由と統一への長い道』(昭和堂)というヴィンクラーの有名な本に詳しく書いてある。

 麻生氏が言う「手口」はこのあたりかもしれない。あるいはそれ以前のナチ党の一方的に相手を叩くプロパガンダ戦術のことかもしれない。

 「第一次世界大戦は負けたのではない。国内で革命を起こした連中による裏切りのせいだ」。「経済混乱はヴェルサイユ体制のせいだ」。そして、「ユダヤ人のせいだ」。こうした議論を党の弁論家養成学校で学び、鏡の前でシャドー・トレーニングを重ねた弁士たちが全国に散り、何千、何万という集会を組織して煽動を続けた効果は抜群だった。暴力的威嚇もひっきりなしにされた。反戦映画『西部戦線異常なし』の上演をゲッベルスはかんしゃく玉、悪臭弾、そしてネズミの大群を使って阻止した。このあたりは現代政治史の第一人者ブラッハーの本に詳しい(『ドイツの独裁――ナチズムの生成・構造・帰結 I・II』岩波書店)

 「誰も気がつかないうちに」ではないのだ。唯一、正々堂々と反対した社民党党首のオットー・ヴェルスはヒトラーに面と向かって「我々は目下のところ貴下が権力を握っているという政治的事実を知っている。しかし、国民の法意識もまたひとつの政治的な力であって、我々はこの正義感に訴えることをやめるわけにはいかない」と演説したが、正面突破を狙うナチスには、糠に釘、蛙の面に小便だった。

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筆者

三島憲一

三島憲一(みしま・けんいち) 大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)

大阪大学名誉教授。博士。1942年生まれ。専攻はドイツ哲学、現代ドイツ政治の思想史的検討。著書に『ニーチェ以後 思想史の呪縛を超えて』『現代ドイツ 統一後の知的軌跡』『戦後ドイツ その知的歴史』、訳書にユルゲン・ハーバーマス『近代未完のプロジェクト』など。1987年、フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞受賞、2001年、オイゲン・ウント・イルゼ・ザイボルト賞受賞。

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