2013年09月16日
先に「『一票の格差』違憲判決、裁判所は『最後の砦』になってほしい」という記事を書いた(WEBRONZA2013/03/13)。確かに現行の選挙制度においては、「一人一票」が政治上の平等を意味することになっている。
だが、代表民主制において、一人一票がいつも正しいものなのか、疑問に思うことがある。現に海外においては、そうでないことが現実にあるのだ。
例えば、民主主義社会の典型といわれるアメリカを例に考えよう。確かに下院議員は人口数で選挙区の区割りが変更され、一人一票を原則にして選出される。だが上院議員は、人口にどんなに差があっても50ある州各々から2名ずつ選出される(注1)。つまり一人一票ではなく、地域平等なのだ。アメリカにおける州は、本来国家であり、それが集まってアメリカという連邦国家を形成しているので、このような仕組みを踏襲しているのである。
歴史的経緯や国家の成り立ちが異なるので、アメリカと日本は一概に比較できない。また、一人一票に代表される普通選挙(注2)は人類の長い歴史のなかで生み出されてきたものであり、軽々に論じたり、気軽に変更すべきではないことも承知している。
しかしながら、厳密に学問的、歴史的に検討したわけではないが、感覚的にいうと、一人一票が平等という考えは、例えば次のような近代国家や社会の発展と連動してきたものでないかと思う。
まず、平等という価値観は歴史的に生み出してきた人類の重要な価値観の一つ。その意味で、一人一票にすることで、個々人を平等に扱おうという価値観が込められてきたのだ。
次に、権力者に対抗して国民・市民が力を得るなかで、一人一票とすれば、政治勢力として数の多い国民・市民が当然勝てたということである。
また、近代国家の段階では、多くの国で生産性が上がり人口が増加していた。その結果、より若い世代が相対的に多かった。このため、社会が次世代の意見を反映しやすいような構図が存在していたのだった。
こう考えてくると、世界の発展や時代の流れと、一人一票による政治的正当性と社会的な継続性がうまくつながっており、一人一票という仕組みがそれなりに有効に機能してきたことがわかる。別のいい方をすれば、一人一票による民主制は、時代の所産であったのだ。
だが、人間の寿命が延び(注3)、少子高齢化が世界中で進行する今日、日本をはじめとする多くの国々で、いわゆる「シルバー・デモクラシー」という状態が生まれた。つまり、有権者のなかで高齢者の占有率が高くなり、彼らの投票率も高いために、高齢者の意見が政治的に過剰に反映されやすくなっているのだ。
このため、政治家や政党が選挙で有利になるように、高齢者を優遇し、高齢者に有利な政策や、負担を先送りすることによる財政赤字など非常に深刻な問題が生まれている。この結果、若い世代やまだ生まれていない世代に不利な状況がある。若い世代からすれば、ある意味「非民主的な状況」ができていることになる。これでは、若い世代のやる気を削ぐことになり、結局は社会がサステイナブルになりにくい。
これは、まさに「一人一票民主主義」の弊害だともいえる。
いまは、これまでの「民主主義」を再考すべき時代にきているのかもしれない。その弊害を改善するために、いくつかの提案や試みも出ている。
たとえば、
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